ニュース日記 743 欲望の年齢
30代フリーター やあ、ジイさん。創刊50周年を迎えた女性誌『anan』の歩みを朝日新聞が振り返っていた(6月9日朝刊)。
年金生活者 今の若い女性の求める幸福は老人の求める幸福に似てきているのではないか。読んで、そんな感想を持った。
「女性の欲望を先取りし」「時代の新しい風を届け」「新たな自分を発見せよとハッパをかけ」「女性の性の主体性を軽やかに問いかけ」てきたが、「そうしたエッジの立った企画は90年代に入ると徐々に姿を消していく」と、雑誌の半世紀を記事は総括している。
22代目になる現編集長は今の誌面作りを「生活の楽しみ系」路線と呼び、「幸福の形が揺らぐ時代、日々の暮らしの中で、信頼できる人と一緒に、気持ちのいいことやときめきを見つけたい。そんな女性たちの願いに寄り添っています」と語る。
この「女性たちの願い」は吉本隆明が『幸福論』で語った、老人の求める幸福と重なる。「例えばおじいさんなら、今日は孫が遊びに来て、孫と遊んでたら気分が少しよくなったなんていうことでも、それを幸福と決めちゃう」
今の若い女性たちが年寄りじみているというのではない。私たちの社会が老年期を迎えているということだ。富の稀少性の縮減が人びとの欲望を切迫したものから余裕のあるものに変えた結果をそこに見ることができる。
30代 欲望が衰えたということだな。
年金 若いときの欲望は飢餓感が大きく、そのぶん、満たされたときの快感も大きい。加齢とともにどちらも小さくなっていく。
緊張あるいは興奮が生じると、それを解消しようとする心の傾向をフロイトは快感原則と呼んだ。緊張、興奮は心の平衡状態からの逸脱を意味し、逸脱が大きければ大きいほど、飢餓感が増し、満たされたときの快感も増す。
平衡状態にある心の原型は胎児だ。快感原則は母胎に帰りたいという願望を駆動力としている。飢餓感が強ければ強いほど、言い換えれば平衡状態からの逸脱が大きければ大きいほど、母胎への帰還願望も強まる。それはもともと充足不可能な願望なので、強まれば強まるほど、それを満たそうとする行動は生存の危険をともなう。
それを避ける作用としてフロイトは現実原則を想定した。快感原則に従うのをあきらめたり、先送りしたりする作用だ。若いときは平衡状態からの逸脱が大きいぶん、そのリスクを回避する現実原則の作用も強まる。若い男性のほとんどが性欲を満たすためにすることは、すぐに女性と性交しようとすることではなく、せっせとカネを稼ぐなどして、女性を惹きつけようとすることだ。
年を取り、性欲が弱まると、そうした現実原則にもとづく迂回作業も次第に必要なくなり、それをする力も減退していく。カネを稼ぐことよりも、孫と遊ぶことに関心が向く。近代の社会もまたそれと似た推移をたどってきた。高度経済成長期を青壮年期にたとえるなら、現在は老年期にたとえることができる。
30代 ジイさんの毎日も平穏なわけだ。
年金 加齢とともに、痛みと怒りが心の中に占める割合が大きくなっている気がする。喜怒哀楽のうち喜や哀や楽が後退し、怒が痛と手を携えて前に出てきた感じだ。痛いから怒り、怒るとその反作用でまた痛くなる。喜んだり、楽しんだり、悲しんだりすることの方へ感情を転換するのが難しくなっている。これは乳児への退行を意味しているのではないか。
私の想像では、新生児が最初に覚える感覚は痛みであり、最初に持つ感情は怒りだ。産声はそうした感覚と感情の表出にほかならない。母胎の楽園を追われ、荒れ野のような世界に生まれ落ちた痛みと、その理不尽さへの怒りだ。やがて痛みは感情の痛みに拡張される。
老化によって痛みと怒りが主流となった感情は、変化の幅が狭まったぶんだけ柔軟さを欠く。年を取ると、つまずいたり、すべったりして転んだとき、柔道の受け身に相当する動作をすることができなくなるように、心も受け身ができなくなる。
30代 やっかいだな。
年金 崩れかける心のバランスをなんとか保つことができているのは、間近に迫りつつあるおのれの死を勘定に入れながら日々を送るくせがついているからかもしれない。
断捨離とか終活はそうしたくせの集中的なあらわれだろう。自分の死を勘定に入れながら生活するということは、死からの視線を行使しながら、何かを判断したり、行ったりすることを意味する。
生きることは個別的な動作の連続だ。その否定である死は普遍性への移行とみなすことができる。人はそこからおのれの生を俯瞰する。痛みと怒りに多くを占められた心もまたその視線によって相対化され、バランスを取り戻す。
死からの視線は普遍的な、ユニバーサルな視線であり、宇宙的な視線ということができる。この視線を日常的に行使しているのは老人ばかりではない。乳児も同様と想定される。少し前まで母胎という宇宙と一体で、自分自身が宇宙でもあった胎児の時代の視線を乳児は名残として持っている。痛みと怒りを泣き声で表出し続ける乳児が心のバランスを崩さないでいられるのは、それがあるからだ。