座付の雑記 35 数え年

 子ほめという落語がある。代表的な前座噺で、寄席に行くとよく最初の方で若手が演じている。前座噺といっても設定が比較的シンプルというだけで、よくできたとてもおもしろい噺である。人を褒めて振る舞い酒にあずかろうとするおっちょこちょいの八五郎が言い間違いや見間違いの失敗を繰り返す、落語の王道をいく名作だ。

 人を見た目よりも若く言うと機嫌がよくなるというアンチエイジングを茶化した噺とも言える。生まれたばかりの赤ん坊を「どう見ても一つには見えない」と無理に褒めてオチへと向かうのだが、今の多くの人にとって、ましてや子どもたちにはよけいにどういうことなんだろうと疑問が浮かぶのではないかと思う。言うまでもなくこれは生まれたときが一歳という数え年だからなのだが、その知識があったとしても、それに結びつくのにちょっとしたタイムラグが生じてしまう。考えずに聞いてわかるのが落語のおもしろさだから、このわずかな隙間はちょっぴり残念である。

 ぼくが小さかったころは、父や母の里帰りに同行するとそこらじゅうに明治生まれの爺さん婆さんたちがごろごろいたので、「このさん(この子)はどこの子かね」「○○の分家の」「ほーん、そーで歳はなんぼかね」という会話を何度も繰り返さねばならなかった。母は「満で3歳、数えで4歳」と答えるのだと事前にぼくを仕込んでいたから、その通りに答える。「ほう」と感心してくれる婆さんたちには好感を抱いたが、「えらいていねいに教えてごいちゃった(教えてくれた)」と笑う年寄りもいてそれが子ども心に実に不愉快だった。母はぼくのとなりで苦笑していた。今にして思えば、ぼくとは逆で、婆さんたちは満年齢を知るのに換算しなければならない人たちだったのだ。母は正確に伝えようと、ぼくにえらいていねいな答え方を教えていたというわけだ。

 歳を聞かれたこどもたちは、数え年からえらいていねいな答え方を経て満年齢へと移ろった。正月にみんな一斉に歳をとるのだから誕生日という意識も今よりずっと希薄だったろう。ぼくも今の子どもたちほどの特別感はもっていなかった。

 子ほめを持ちネタにしている子に、せっかくだ、数え年について調べてごらん、とリクエストした。