座付の雑記 26 あるアングル

 落語教室の写真は、写真屋の佐野さん(本人がこの呼称を好む)に撮ってもらっている。ずっと前からよく知っている人なのでずいぶんと無理を聞いてもらっている。

 ぼくも写真は見るのも撮るのも好きなのだが、寄席の間は子どもたちの様子を見守り、出囃子をかけ、時間配分を調整し、と気を張らねばならないため、とてもカメラを持つ余裕などない。落語教室を始めたころは、子どもたちの撮りたい表情に出合うと、カメラを用意しておけばよかったと悔いが浮かんだものだが、今はもうすっかりあきらめがついて、写真はすべて佐野さんにまかせ、彼女の都合が付かないときはあきらめる、で何の痛痒も感じなくなった。

 撮ってもらった写真は、ホームページやインスタグラムに掲載するのをはじめ、チラシを作る際にも利用する。佐野さんの写真がなかりせば、これらを作ることも、思いつくこともなかったろうし、こども落語も今とは違うものになっていただろう。

 2年間、こどもたちの表情を追ってもらっているので、もらった写真数は万単位にのぼる。ホームページやインスタグラムに載せているのは、その中のほんの一部だが、それでもかなりの数になる。こどもたちが成長するにつれてどう顔つきが変わっていくのか、また落語を通してどんな表情を獲得していっているのか、時を追って見ていくとよくわかる。

 佐野さんが来られない寄席については、保護者に頼んで送ってもらうことがある。先日そのうちの一枚を見ていてはっとした。そこに写っていたのは、高座に上がったある子の小さな背中と、その先でその子を見つめているたくさんのお客さんの顔だった。つまり、演じ手から見える光景なのだ。

 保護者は、いくら我が子が上がっているとは言え、高座の側に立つことはまずない。ただ一つ例外があって、その子がごく幼くて高座への上がり下りや演じるのに手助けが必要な場合は、そばについてもらうことがある。たまたまそのような状態で写した一枚だったのだ。満員でぎゅう詰めになった客席に並ぶ顔がすべて高座に向かっており、そのどれもがとろけそうな笑みを浮かべ手を叩いている。写真を見ているこちらまで同じ顔になってくるようだ。狙って撮ったのではない、ただ我が子を追って写した中にまぎれこんだ一枚だ。そしてそれは、これまでの何万枚の中に一枚もなかったアングルだった。なぜなかったかを考えないわけにはいかなかった。

 この一枚のおかげで、これから佐野さんと試行錯誤することになりそうだ。