老い老いに 56
世界で初めて原爆が落とされた街に四年間も居ながら、被爆地広島に向き合おうとしていなかった。当時間借りしていた家の主でありアルバイト先である喫茶店の店主から、「うちの旦那は二次被爆でね」と聞いたのは、その街で過ごす最後の夏、8月5日だった。喫茶店は平和大通りに面している。そのあたりでは原爆投下の日の朝、大勢の十代の男女生徒らが建物疎開の作業に来ていて犠牲になった。焼け跡には頭蓋骨がごろごろしていたとの話を聞いたその夜は一睡もできなかった。翌朝、店主が花束を提げて平和公園に向かう後姿を見た。その夜は憑かれたように暑い空気の中を平和公園まで歩き、暗い水面を彩る灯篭の灯りをずっと眺め続けた。
『2004、夏、広島』のタイトルで連載を始めたのは533号から。この夏、原水禁世界大会に初めて参加したのだ。何年も、ある恩人への思いをずっと引きずっていた。初任の頃、仕事で悩んでいた時、被爆者手帳を見せて自身の被爆した際の生々しい体験を話してくださり、それからあれこれ相談に乗っていただいた。何のお返しも出来ずに永遠の別れとなったその方への思いを灯篭に込めて流すのだと決めた。
大会への参加を終えた夜、恩人への思いを書いて灯篭を流し、翌朝相生橋を渡ると、船も灯篭も跡形もなかった。夢のようではあるが、前夜確かに灯篭は暗闇の中とりどりの色で水面を飾っていた。そして幾十年も前にはこの水を求めて大勢の人が押し寄せ重なり、川を埋め尽くしていたのは事実なのだ。いまだに川底からボタンなどが見つかるという。
2日目の似島で見たり聞いたりしたことは、あれから30年経った今も忘れることはできない。原爆が投下されたあと、宇品港から次々と負傷者が運ばれ、その数は1万人に上ったが、助かった人はほとんどいなかった。中でも、麻酔がなくなった野戦病院で、焼け爛れた腕や脚を切ってくれと懇願した十代の女性たちの前に立った医師の苦悩の話には胸を打たれた。放射能被曝という誰も治療法を知らない中、医師たちは混乱し続けたことだろう。まだ山裾に眠っている遺骨掘り起し現場であるというブルーシートに手を合わせた。
この年の平和ツアーがあまりに濃密で、まだまだ知らなければ、向き合わなければならないという思いを強くし、翌年も、その翌年も8月6日には広島に向かうことになる。
