老い老いに 55

 506号から13週にわたって連載してくださったのは志村真氏。以前「カルトって知っていますか」の演目でお話いただき、その講演録が掲載された。今回は、『イエス物語を再話する―スリランカの内戦状況においてー(アジア的聖書解釈は可能か)』のタイトルで、スリランカの内戦について、聖書に書かれている話を織り交ぜながら綴られた。この内戦は千九百八十三年に勃発し、民族、宗教等の問題が絡み合い、虐殺や、暗殺(インド元首相ラジーブ・ガンディー、スリランカ大統領ラナシンハ・プレマダーサ)などが起き、2009年に漸く終結している。志村氏が投稿された2004年はまだ内戦中で、しかも12月にはスマトラ沖地震が起きている。スリランカの人たちには踏んだり蹴ったりの年だったのだ。

 徐勝氏が2月に「東アジア青年・学生、平和・人権キャンプ2004ⅰn関西」で発表された内容がこの通信に掲載された。その中に、まさにその通りだと思う文章があるので再び載せる。

「国家は他人が滅ぼすのではなく、自ら滅びる」という言葉があるが、人類の歴史は、「敵を打ち破る」はずの「軍」が結局は自国民に牙をむいてきた事を教えている。「備えあれば憂いなし」の「国家安全保障至上論」は結局、「国家」ではなく、政権や一部の独裁者の野望の実現のために利用されてきた。少なくとも、社会の軍事化、武装化は「自由」「平和」「民主主義」という現代社会の人間にとって最も重要な価値を剥奪したり、抑圧したりしてきた。例え「憎い相手」を滅ぼしたとしても、その刃は結局、自国民に向けられるという教訓をいやというほど、学んできたはずである。

 今、イスラエルとパレスチナ問題で、停戦合意がなされたものの人質解放に関してのごたごたで足踏み状況が続いている。先が見えないロシアとウクライナの戦争…。21世紀になってからの戦争、紛争がどこで起きたか検索してみて驚いた。列挙しきれないほど世界各地で起きているではないか。人類はなぜこんなに過ちを繰り返し続けるのだろう。何億分の一の確率で生を受けた者は、与えられた命を大切にしなければならない。健康で安全に、そして皆が手を携え仲良く暮らしていく。そんな当たり前の暮らしが叶えられないという現状が地球上のあちこちで起きていることが悲しい。