座付の雑記 21 新作落語

 古典落語と呼ばれる噺は、およそ300ほどあるとされる。100年以上をかけて練り上げられた宝庫ではあるのだが、こども落語として使えるのはその10分の1程度かと思う。もともとが大人の娯楽で、聞き手とともに作っていく口承文芸だから、こどもにはとても聞かせられない噺が多数できてしまうのも自然な成り行きである。

 古典落語といえど、できたときには新作落語だから古典を演じつつ新作も積極的に高座にかけるというのは意欲のある表現者にとってこれも自然なことだと思う。そうして山のように生み出される噺の中から時代の波に洗われながらも消えることがなかったわずかなものが新たに古典に加わっていく。

 古典落語も古典落語で時代が移ろい人々の意識が変わっていく中で、受け入れられなくなってしまったものは容赦なく消えていく。落語に限らず言葉でできているものは、どれも同じだろう。古典だけでも物足らず、新作だけでも物足りない。それらが混じり合ってこそ活力ある話芸になる。落語というのは、その有り様が絶妙だなあと思う。

 あーとがチャリティーライブを思い立ち、奮闘したことについては以前にも触れたが、去る10月13日、県民会館を満員にして無事に終わった。家族の協力はもちろんのことだが、あーと自身も節制に努め念入りな準備をした。それでも小さな子どものこと、気持ちがゆれ動いて当然であろうに、当日に向けて調子を上げるべく心身を整え、本番は2時間半の長丁場を、ピアノ、歌、落語といずれもゆるみなく表現しきった。見事というほかない。

 独演会の構想を初めて聞いたのは年明け頃だったと思う。チャリティーとしてチケットの売り上げを全額国際ボランティア団体に寄付することとし、あーと自身が手書きで企画書を仕上げた。それが多くの人の目にとまり、金銭であったり労力であったり、具体的な形となって届き始めた。ぼくも実行委員会に名を連ね、事務やら渉外やらで協力することにしたのだが、ふとこのライブに至る経緯を落語にできないかと考えた。それで作ったのが「チャリ茶」という一席である。チャリティーのきっかけをくれたお寺の和尚さんにはかなり失礼だったが狂言回しの役になってもらい、オチをつけてどうにかできあがった。幸いあーとは気に入ってくれて、ライブを知らしめ、募金を集めるためにあちこちの高座にかけた。

 先日、依頼があって、少々追加して、お礼行脚用の一席に作り直した。本人がやる気になるかは不明であるが、古典と組み合わせてかける気らしい。