老い老いに 50
この年の9月、アメリカの同時多発テロから一年を経て、二人の方から9・11についての文章が寄せられている。一人は前年から夕焼けに投稿してくださっている大学生P・Kさん。2週にわたって綴られている。抜粋を挙げる。
私がこの3月に肉眼で見た(中略)頃はまだ、一帯がビニールか何かの幕で覆われ、惨事の生々しさが残っていた。(2週目)…書き手は上野千鶴子氏。書き出し3行目にあるこの短い文が頭から離れない。「世界にはたくさんの9・11がある」…(中略)…瞬時に木端微塵になった数千というニューヨーク市民も、アメリカ軍がこれまで何十年かけて殺してきたアフガニスタンの民も、被害者個々の命はまったく等しい。経済的に富んだ国は追悼式も催せるだろうが、国が変われば、遺体が野に放置されたままのところもある。罪なくして命を奪われた者にとってはどんな手段の暴力であれ、受けたすべては9・11である。
もう一人は、現在も寄稿を続けてくださっているN・Rさん。編集長への手紙がテロ後一年経って掲載されることになった。朝日新聞の論説に対する意見として書かれたものだが、このテロを「世界の底が抜けるような衝撃」として、次のように語られているのを再読し、なるほどと思ったので挙げてみる。
国家を単位として成り立っている現在の世界のシステムが、あの前代未聞の一撃によって綻び、揺さぶられているからです。この事件は、国家によってはもはや処理することができない事件であり、そこに事件の新しさもあります。…(中略)…絶対王政とそのあとの市民革命を経て成立した近代国家が、そして、その国家を単位に成り立っている近代国家が、終焉に向かって、長い、しかし、必然的な道のりを歩み始めたことの現われのひとつだと、私は考えます。
この記事が書かれたのは四半世紀も前のこと。近代国家が終焉に向かっている状況は今も続いている。ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ問題はまったく先が見えないし、一触即発の緊張状態があちこちにある。国家間で解決できない問題は世界全体で考えていかねばならないのだろうが、どれも根が深く混沌とした情勢はまだまだ続きそうだ。