座付きの雑記 7 転失気
落語に「転失気」という噺がある。物知りと自他共に認める和尚さんが腹の病気になった。往診に来た医者に「転失気はございましたか」と聞かれたが「てんしき」が何かがわからない。聞けばよいものを物知りだという高名が邪魔をする。適当にごまかしたが、知識欲の塊であるこの御仁がそれで済むはずがなく、弟子の小僧である珍念を使って探りに行かせる。このやり方がまったく素直でないので、珍念にからかわれて赤っ恥をかく。この師弟の関係がたまらなくおもしろいので、ぼくはこの噺は大好きである。
ある教室生がこれを気に入って、熱心に練習をし高座にもよくかけているのだが、こども落語のコンクールにこのネタで出ることになった。ぼくは、こと落語に関してはコンクールにまったく興味がわかないのだが、自分の力をそういう場で試してみたいという子がいれば、応援するにやぶさかでない。繰り返し高座にかけて磨いていこうとする教室生の努力に応えるべく、自分の気づいたことを伝えるということを続けていた。あるとき、この子が言った。
「この和尚さんは偽物だから」
ハッとした。お為ごかしを見透かされて情けないことになるなどお坊さんにはあるまじき人物、こんなのは偽物だ、というのである。これまで何度もお寺に呼ばれて落語をしている子なので、出会ったお坊さんたちにこんな人はいなかったというのもあるだろう。偽物と思っても無理はないと思いつつ、ぼくは落語論を語りたくてたまらなくなってしまった。
落語に出てくる人物に偽物はいない。お坊さんもお殿様も大店の旦那様もみんな社会的に偉い人で、それぞれにりっぱな人物だ。でも、そういう高みにいる人をずっこけさせて笑うのが落語だ。どんなに偉い人だろうとしょうもないことに囚われ、くだらないことをしてしまう。人間ってものはそんなもんだよなあ、というメッセージがどの噺にも通底している。というようなことを、小学生相手にちょっと力説してしまった。本物のお坊さんとして読むのと、偽坊主として読むのとでは物語の純度が異なってしまう。
強い知識欲によって尊敬されるに至ったりっぱな和尚さんが、知らない一つの言葉で子どもにひっくり返される。鮮やかな一本勝ちの敗因と勝因には、人間らしさが詰まっている。今わかってほしいというのは、欲が過ぎると思うので、これから何度も高座にかけるうちに、そしていろんな噺に出合ううちに少しずつ感じ取ってくれたらと願う。いや、すでに気づいているから、この子はこの噺が好きなのかもしれない。
