ニュース日記 969 「超多神教」の時代へ

30代フリーター 倫理について考えたので、宗教についても考えてみたい。

年金生活者 倫理は人間の抱える「欠如」に根ざしている。宗教も同様だ。「欠如」は一体だった母との別れによって生じる。それを埋めるには、他なる存在となった母との再度の一体化が必要になる。だが、それが不可能である以上、母に代わる他なる存在を求めるほかない。それが神だ。

30代 神にもいろいろある。

年金 多神教の神々は、「欠如」を手分けして埋める存在として人間の前にあらわれる。「欠如」は様々な形をとる。体力や知力の不足として、忍耐や落ち着きのなさとして、勇気や情熱の欠落として。『古事記』や『日本書紀』に登場する神々は人間に欠けがちのそれらを有り余るほど持っている。

 スサノオは武勇に優れ、ヤマタノオロチを退治する英雄だ。その姉のアマテラスは天界の秩序を守る統治力を備える。イザナギは国生み・神生みでその創造力を発揮した。妻のイザナミは愛情深く、死の淵にあっても夫を迎えようとした。

 しかし、それらの力は特定の対象に対してしか発揮されない限定された力であり、欠点と表裏一体をなしている。

 有り余るエネルギーを持つスサノオは暴れて田畑を荒らすなど粗暴だ。ふだん忍耐強いアマテラスは、危機に際会すると、その反動からか、引きこもる傾向があり、スサノオの乱行が続いたときは天岩戸に隠れた。

 国生み・神生みに情熱を傾けるイザナギは死を忌み嫌い、黄泉の国へイザナミを探しに行きながら、再会した彼女との約束を破り、逃げ帰る。イザナミの愛情の深さは執念深さに形を変え、「一日千人殺す」と夫を呪う。

30代 一神教のほうは神がたったひとりで人間の「欠如」の埋め合わせを引き受けるのか。

年金 全能の唯一神だけを信じることによって、多神教の神の両面性を克服しようとしたのがユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教だ。

 フロイトの想定したエディプスコンプレックスの概念を当てはめるなら、身体および欲望でつながる母と幼児の関係に相当するのが、多神教の神々と人間の関係だ。そして、母子の間に割って入り、両者の自然性を禁じようとする父と、それに抵抗する幼児との関係が一神教の神と人間の関係に相当する。

 人間は「欠如」を放置したままだと、寄る辺のない荒れ野をさまようような不安に囚われ続けなければならない。「欠如」はなんとしても埋めないと、自分の存在を確信することができない。それを乗り越える方法のひとつとして、人間は神を発明した。その神は常に神らしい姿をしているとは限らない。国家であったり、イデオロギーであったり、カリスマであったり、科学であったり、さらには無神論でさえあったりする。このことは、人間が信仰を完全に排除できないことを示している。

30代 ただし、その形は様々に変化してきた。

年金 神を求める動因となった「欠如」は富の稀少性に遭遇し、貧困、病気、争闘などとして経験される。神はそれに対処できるように人間によって育てられていく。

 日本で19世紀後半から20世紀中ごろにかけて相次いで成立した新宗教は「貧・病・争」の解決者として登場した。天理教、大本、創価学会、立正佼成会、PL教団といった教団に代表される。日本で近代的な資本主義(産業資本主義)が誕生し、発展していった時期だ。それまでの伝統宗教は地域共同体に根をおろし、「貧・病・争」に対する救済はその共同体が受け持っていた。資本主義はその共同体を侵食した。農村から引き離されて都市労働者になった日本人は「貧・病・争」への対処を共同体に頼ることができなくなり、自分で引き受けなければならなくなった。それに手を差し伸べたのが新宗教だ。

 やがて「貧・病・争」は資本主義の高度化にともなう富の稀少性の縮減によって減っていった。選択的消費の膨張、医療の進歩、社会保障の拡大が、新宗教の役割を減らしていった。

 1980年代に「新新宗教」と呼ばれる宗教運動が台頭してきた背景にはそれがある。幸福の科学、オウム真理教、GLA、ワールドメイトなどで、「貧・病・争」の解決よりも自己実現、癒やし、精神的な成長、スピリチュアルな価値を求める若者を中心に広がった。そこでは母と別れた当初の「欠如」の始原の姿が前景化している。

30代 そういうのは日本だけの現象か。

年金 日本における伝統宗教→新宗教→新新宗教という流れは、キリスト教圏でのカトリック→プロテスタント→スピリチュアル運動・ニューエイジ運動という流れと相似形をなす。近代以前→資本主義の興隆→資本主義の高度化という歴史の推移がその背景をなしている。

 日本の新新宗教とキリスト教圏のスピリチュアル運動・ニューエイジ運動は、教団よりも個人、教義よりも癒やしを重視する傾向にある。これを延長すると、ひとりひとりがそれぞれ別の神を信じながら、それでも人と人のつながりを求めてひとつの小共同体を形成する宗教運動が想定される。そうした「超多神教」が将来の宗教のあり方のモデルのひとつになる可能性がある。