ニュース日記 968 続・未来の倫理
30代フリーター AIの進歩によってモノやサービスが自動生産され、人間は働かなくてもそれらを手に入れられるようになると、それまで美徳とされていたものは根拠を失う。そのとき、新たな倫理が生まれる可能性がある。だとしたら、それは何を善とし、何を悪とすることになるのか。先週はそこまでで話が終わった。
年金生活者 従来の倫理は「欠如」を前提としたものだが、その「欠如」は経済的な富に限られる。それ以外の「欠如」、すなわち心に生じる「欠如」は依然として残ると考えなければならない。未来の倫理はそれを前提としたものになるだろう。
30代 どんな「欠如」なんだ。
年金 ひと言でいえば、生誕にともなう「欠如」だ。生誕とは、それまで一体だった母との別れを意味する。生まれ落ちた子は、片割れを失った存在であると同時に、母にその片割れを失わせた存在でもある。「欠如」を抱えた存在であると同時に、「欠如」を与えた存在でもある。そのことに子は喪失感を抱き、同時に負い目を感じる。前者は貸しの、後者は借りの感情であり、両者は互いを打ち消し合って収支のバランスを保つ。
それを破るのが、母子の生理が強いる授乳と排泄の始末だ。乳児にとってそれは自らのこうむった「欠如」を埋めてもらうこと、貸したものを返してもらうことを意味する。それを元からあった借り=母に与えた「欠如」と足し合わせると、たちまち債務超過に陥り、子はそれを返済しないではいられない衝動に駆られる。母に見せる愛らしい笑顔や寝顔はその返済に充てられたものだ。
負い目が人間を贈与へと駆り立てる。そこに他者への配慮という倫理の根源を見ることができる。これは経済的な「欠如」がなくなったあとも消えることはない。
30代 若い世代の倫理観の中に未来の倫理の予兆がうかがえないか、ネット上でデータを探しても見つからなかったので、AI(チャットGPT)に今の若者がどんな義務を倫理の最上位に置く傾向にあるか尋ねてみた。その答えを要約すると、以下のようになる。
(1)感情の上での「思いやり」以上に、相手の立場に立って物事を考える「共感」への努力を重視する。
(2)伝統的な道徳や慣習に縛られることを嫌い、「その人が何を選ぶか」を最大限に尊重しようとする。
(3)「頑張れば報われる」「自分のことは自分で責任を取る」といった倫理よりも「社会構造や背景への理解」に重点を置く。
(4)会話や表現では「正論」で相手を傷つけることが最も避けるべき非倫理的行為と考える。
(5)総じて「関係性の中での倫理」に敏感で、絶対的な規範より「誰かとの関係で、今どうあるべきか」に重点を置く。従来の「こうするのが正しいから」ではなく、「それは誰かを傷つけないか」「その人の背景をちゃんと理解しているか」という問いがモラルの軸になっている。
年金 「謙虚」「施し」「労り」「忍耐」「貞節」「節制」「勤勉」といった美徳が、いつでも、どこでも、どんな状況でも、どんな相手に対しても守られるべきものとして普遍的な規範となっているのに対し、若い世代が重視しているのは個別性だ。普遍的な規範が捨象する細部を掘り下げ、背景まで考慮して相手に向き合おうとする。
この違いを経済にたとえるなら、従来の美徳が交換価値を基準にしているのに対し、若い世代の倫理は使用価値を基準にしていると言うことができる。これは比喩にとどまらない。富の稀少性の縮減が交換価値のウェートを下げ、使用価値のそれを上げつつあることが、倫理の形成に反映していると見ることができる。
30代 それは相対主義であり、確固とした基盤を持たず、絶えず揺らぐ、頼りない倫理だという批判も成り立つ。
年金 しかし、その基礎に、先週も話した吉本隆明の「人間の『存在の倫理』」を据えるなら、従来の美徳にくらべてより深い普遍性を獲得する可能性がある。
たとえば従来の美徳である「謙虚」は、いつでも、どこでも、どんな相手にも腰を低くすることを求める。これは取りようによっては極端な要求だ。「高慢」という悪徳に対置されたことから生じる極端さであり、その根底にあるのが経済上の「欠如」だ。それにくらべると、若い世代が重視する「共感」にはその種の極端さがなく、代わりに繊細さがある。それは「人間の『存在の倫理』」が前景化した結果ととらえることができる。
人間はこの世に存在する限り、自己にも他者にも影響を与えてしまうので、その責任を免れないというのが吉本による「人間の『存在の倫理』」の定義だ。その最初の「影響」が、生誕によって自己が負った「欠如」と、母という他者に与えた「欠如」にほかならない。
30代 その責任はどうやって果たされることになるんだ。
年金 「欠如」を埋めれば果たすことができるが、それには母胎に帰って行かなければならない。そんなことは現実には不可能なことなので、代替行為によって果たすしかない。相手の立場に立って物事を考える「共感」や、相手の属性や行動の背景に対する「理解」はそれに該当するだろう。