老い老いに 27

 夕焼け通信発行5年目が終わり本社移転となった春、発祥の地秋鹿支社が閉鎖となる。発起人3人のうち一人残った私も転勤となり、秋鹿の地を去ることになったのだ。

 この年の春はてんてこ舞いだった。娘が高校に進学し、毎日弁当作りをしなくてはならなくなった。夫が解離性大動脈瘤という大病をして以来、減塩の弁当を作ってはいた。それに娘のが加わり、毎日二人分作ることに。おかずのことで大げんかをして以来、部活で弁当を持って行かねばならない時は娘に作らせていた。けれども高校に入ると授業の予習はあるし、部活も続けるつもりのようで、毎日の弁当作りは無理だと思ったらしい。「お母さん、もう文句言いませんのでお弁当作ってください」としおらしく頼むので致し方ない。

 勤務先は、特別支援学級の新設ということで中学校に行く羽目になった。初めての中学校現場は小学校とは全く違っていた。当時、その学校が荒れていたこともあり、殺伐とした雰囲気で、生徒にも職場にも馴染めそうにない。救いだったのは、同僚の中に秋鹿から通ってくる人が居たことだ。その方とは一年限りのお付き合いだったのだが、今なお夕焼け通信の読者であり、文通を続けている。

 娘の進学、私の転勤とごたごたした中で迎えた春休み、息抜きの家族旅行に出かけた。行先は天草。そこは、私たちの新婚旅行でたどり着けなかった地だ。大型連休に宿もとらずに車で天草目指して走った私たち。宿泊先が見つからず、夜通し走り続けて博多に到着。たまたまその日は博多どんたくで、せっかくだから見物しようと朝から空いた宿を探し回りようやく落ち着いた。博多で一日を過ごした私たちはすっかり疲れてしまい、次の日には引き返してしまった。ところで、なぜ天草を目指したのか。以前「サンダカン八番娼館」を読んだ際、身近にいた人を思い起こしたのだ。祖母から若い頃南方に居たと聞いたことがあるその人を、真偽のほどが分からないままその物語に重ねてしまった。天草出身のその方は、自分の過去を捨てようと見知らぬ土地に来たに違いない。晩年死の病を得て、結局は遠い親戚に連れられて故郷へ帰って行った。二度と踏むまいと決意しただろうと思われる地へなぜ帰ったのか。そこはどういう土地なのか、どうしても行ってみたくなったのだ。