老い老いに 24

 長男は、「アメリカ軍きちにいきました。いろいろな飛行機やヘリコプターがありました。日本は戦争をしないと言っているのに、戦車や飛行機をおいて、しかも平気でアメリカに沖なわをあげてるみたいでへんだなと思いました」と、沖縄で目にした現実に矛盾を感じている。大人と一緒にひめゆりの証言を聞いた娘は、「ひめゆりの話を聞いて、私の住んでいる松江で聞いていたら、こんなに涙はでないだろうなと思いました。沖縄のガマや資料館など、たびたび聞こえる飛行機の音のない所だったら、こんなに現実的に聞こえないだろうなと思いました」という書き出しで日記を綴っていた。沖縄の地に立って見たり聞いたりしたからこそだ。そして、私の頭の中には、ひめゆりの証言をしてくださった方の、何度も発せられた「知らなかったんです」の言葉が重くのしかかっていた。同じ日本にいながら、私は沖縄で起きた悲惨な出来事を、そして今なお基地に占められて喘ぐ地元の人たちの苦しみを知らずに過ごしてきた。自分が学生時代を過ごした広島についても、最後に住んだアパートの大家さんの連れ合いが二次被爆で亡くなったことを耳にしながらも、それ以上掘り下げようともしなかった。その後、沖縄に関する本を読んだり、広島の原爆記念日に平和ツアーに参加したり、数年後には韓国平和ツアーにまで行くようになる。それらの行動のきっかけになったのが、この夏の沖縄行きだった。

「沖縄平和ツアー」連載が終わる頃から始まったのが、編集長による「加害者としての私の戦争体験❘日本は中国で何をしてきたか❘」というSさんの講演記録だ。戦争による被害者の中には、自分の経験を語ることに抵抗があり、死ぬまで口にしなかったという人が多い。まれに何十年経ってやっと重い口を開いて語り部となる人がいる。まして、加害者となると…。被害者としての語り部になられた人もそうだが、あえて人前に立って加害の事実を話すということは、こういうことは永遠にあってはならないという強い思いに他ならない。

沖縄の壕では、中心部に行くほど階級の高い兵士が居座り、住民たちが壕を追いやられ、しまいには集団自決まで迫られたという、何十年も人々が口を閉ざし続けた出来事を思い起こしながら毎号の連載を読んだ。