老い老いに 17
編集長に、「色々な方と知り合われるようですが、どうしてそんなことができるのですか」と聞いたことがある。すると、編集長は、「よく手紙書くんですよ。そしたら、意外に返事が来るんです」とのこと。小説家などからも返事がくるのだそうだ。編集長の奥さんからこんな話も伺った。「電話がかかってきて、谷川と名乗られたんです。どこの谷川さんかと思ったら、あの谷川俊太郎さんで、もうびっくりして…」先日92歳で亡くなられた谷川俊太郎さん。高校時代、「二十億光年の孤独」の詩には衝撃を受けた。その詩の作者である谷川俊太郎さんを当時編集長が拠点としていた奥出雲にまでお呼びしている。半端ない行動力にただただ脱帽。その編集長が1996年9月からハンセン病を取り上げた「涙の連絡船」を連載した。隠岐から松江に向かうフェリーの中で、論楽社のブックレット『病み捨てられた人々―長島愛生園・棄民収容所』を再読したのがきっかけのようだ。「涙の連絡船」を連載した後、戦争中のフィリピンについての連載を続けるのだが、その後、実際に長島愛生園を訪問することになるのだから驚きだ。
劇団「たいよう」を立ち上げ、『かっぱの笛』の本土公演をやってのけたYさん。10月からは隠岐を離れ、広瀬に新しくできる福祉専門学校の立ち上げに携わることになる。そして、『かっぱの笛』を公演した「しいの実シアター」を擁する劇団あしぶえの研究生としても通われることになり、「放浪の記」のタイトルでその歩みが掲載されていく。
編集長もYさんも私より少し若く、当時30代後半。お二人とも、たくさんの人と出会い、その人たちに魅せられ、深くかかわっていく。そうした中で人としての重みも厚みも出てくるのだなと薄っぺらな私は感じ入ってしまう。『病み捨てられた人々―長島愛生園・棄民収容所』を出した論楽社に編集長は発信する者として多大な影響を受けていて、「論楽社の方から20年続けることですと言われました」と聞かされていた。私には自慢できるようなものは何もないけれども、30年続いた夕焼け通信に関われたことだけは誇らしく思う。