老い老いに 16
4年目に突入した夕焼け通信、この年も新旧交代しながら10人以上の書き手による文章が紙面を賑わした。小説や脚本まで現れ、出稿者も遠くはオタワにまで。私は幼少期を過ごした大阪の泉南での生活を1年にわたって連載している。そして、8月末に行われた「みんなでつくる発表会」のワークショップで特別講演をされるという田島征三さんのお話を聞きに隠岐まで行き、あろうことか「ある小さな小さな島の物語」の絵本を田島さんの手に取っていただいたのだ。その反応は、「田島さんの痛烈パンチ」として夕焼け通信に載せた。
我が家では、4月から末の息子が小学校に上がり、長女は中学2年になっていた。思春期真っただ中に入った長女を筆頭に、マイペース長男、わんぱく二男と、相変わらず子育てに右往左往の日々。どの子も病気がちで、長女は小さい頃からよく溶連菌感染症に罹り、中学生になっても熱を出すことがあった。生後1か月から喘鳴が出た長男はよく風邪をひいて熱を出し、食が細いからか感染症に罹りやすい二男も熱を出したり腸感冒に罹ったり。職場の理解に助けられてはいたが、同居の義母がいなければ、仕事を続けることはできなかったろう。
部活が忙しい長女はもう家族とはほとんど一緒に行動せず、休みの日は里の出雲に行くにも公園に遊びに行くのも長男、二男とだった。冬の間パン作りに凝っていた長男の頭の中ではカブトムシやクワガタ虫が飛び交い、「ファーブル昆虫記」を手にしてからはフンコロガシ探しを二男と共に付き合わされた。二男のわんぱくぶりはさらに高じ、小学校では喧嘩ユージと名付けられる。
通信が始まった頃に大病をした夫が「いつまで生きられるか分からんから」というのでバイク購入を許したところ、そのバイクに乗ってみたくなり、中型免許取得に自動車学校にまで通うようになった私。「疲れた」を連発しながらも、子育て、仕事、夕焼け原稿書きとあれこれ目まぐるしく動いていたその頃、すでに40歳になっていたのだが、多くの人の熱量が注ぎ込まれた夕焼け通信のパワーに引きずられてでもいたのだろうか。