老い老いに 14
編集長が隠岐へ渡ってから、夕焼け通信に隠岐色が濃くなっていく。もともと書き手も読み手も編集長の求心力によって夕焼け通信に吸い寄せられてきたようなものだから、その編集長が行くところに人は集まり、様々なことが展開されていくわけだ。1995年の10月には近代日朝関係史等の研究者である尹健次氏(当時神奈川大学教授)が隠岐に招かれ、講演録が夕焼け通信に掲載される。11月にはYさんたちが立ち上げた劇団「たいよう」の初演があり、その後各地で公演されていく。そして、年度が新たになった1996年4月には、伊藤ルイさん(大杉栄・伊藤野枝の四女)を隠岐に迎えることになり、その講演録も掲載されていく。さらには、Yさんが勤める施設他、隠岐島後地区の障がい者に関わる五者で構成する「みんなでつくる発表会」がワークショップを企画し、8月の30日から9月1日まで開かれることになった。絵画、書、陶芸、身体表現のワークショップにその道の達人たちが講師陣に迎えられ、何と特別講師には「絵本を読む」でも取り上げた田島征三さんを迎えるという。憧れの絵本作家が隠岐に来られるということで、私の胸は高鳴った。
隠岐に吸い寄せられていったのは私も同様で、1995年の夏には息子たちを連れて「ひまわり号」に乗り島へ渡った。編集長が竹島を題材にした「ある小さな小さな島の物語」には心惹かれるものがあり、絵を付けて絵本にしている。その絵本を、あろうことか田島征三さんに見てもらおうなどと大それた考えまで心の中に芽生えていた。内地留学した際Yさんが勤務する施設を共に訪れた友人を誘い、ワークショップに一緒に行こうと決めた。祖父が知夫里島出身で、大学の卒業旅行に部活動の仲間と一度その知夫里を訪れたことがあるが、隠岐がこれほど近い存在になってしまうとは。夕焼け通信の力にほかならない。
隠岐を巡る動きがあった3年目から4年目に移る際、またしても社員が異動になった。松江支部の要であったTさんだ。新天地で夕焼け通信を広めてくれるのは喜ばしいが、Tさんに頼りっぱなしだった私は、これから本格的にパソコンを使いこなさねばならなくなった。