がらがら橋日記 髪②

 バリカンを手にした年配の女性理髪師は、何ミリにするのかとか何も考えていないこちらが困る質問をいくつかし、その適当な答えを危ぶんだか、「奥さんに叱られませんか」と念を押してきた。もちろんちゃんと言ってあると答えたが、妻には「かもしれない」と濁して伝えているので、厳密に言うとウソだ。まあおそらくギョッとはしても憤慨まではしないだろう。

 バリカンのモーター音がひびいて、バサッと髪の毛がケープの上に落ちた。鏡に映ったぼくに向かって理髪師が言う。

「これが3ミリです。どうしますか?」

 煩いの元を捨てるのだ。3ミリ5ミリに違いなどない。最少1ミリを試みるに如くは無し。どうせまた伸びるのだし。理髪師は、その長さできれいに刈りそろえるのは本当は難しいのだ、と自身の技術を誇った。

 刈ってしまうと、目の前の鏡に所在なげな坊主頭が浮かんでいる。人の目などは気にならないが、自分が馴れるまでに少し時間がかかるかもしれないと思った。実際、二三日はチラッと鏡が視界の端に見えたときなど、自分だと気づくのにタイムラグが生じた。人様の反応は、塾の保護者がびっくりして「先生、頭っ」とか「どうされたんですか?」と聞いてきた程度だった。子どもたちは、じいさんの頭がどうなっていたかなど記憶にもないだろうし、変化していようといまいとどうでもいいようだ。誰一人、何を言う子もいなかった。まったく煩いというのは自分が作り出している幻影に過ぎない。

 刈った日にネット通販で電動バリカンを購入し、以後は自分で週に一回刈っている。初回こそ妻に頼んだが、刈り残すサイズを決めてただ機械をずりずりと滑らせればいいだけなので、いたって簡単だ。さらに入浴前に風呂場で刈れば、シャワーでさっと流して片付けの手間もかからぬことなどを発見し、こと頭髪に関しては最終解決を見た。ただ、課題が一つあって、襟足がうまく処理できない。自分では見えない上に、まばらに生えているせいで、バリカンをかいくぐってどうしても残ってしまう。

 指先でこの難物をつまんでいると、ふと石垣りんの「花嫁」という詩が浮かんできた。りんさんが、銭湯で「明日嫁に行く」という見ず知らずの女性の襟足を剃ってあげる話である。貧しくとも気高くある人と人との一瞬の交錯が輝くばかりに美しい。かたや、坊主頭のじじいのそれだから、飛躍が過ぎるのだが、若いころ一読刻み込まれた一編への通い路が、意外なところにあった。