がらがら橋日記 髪①

 月に一回の座禅会をするようになって3年が経つ。始めたころはどうしても瞑想とか悟りとか大仰なことを考えてしまっていたが、回を重ねるとそうした特別感もなくなって、ただ呼吸を意識する1時間になっている。そうなるにつれて、あっちこっちに散らかる意識を呼吸へと戻すのが早くなってきたから、座禅にも上達するってことがあるんだ、といいように考えている。気候が穏やかになって、暑さや蚊やらに煩わされることがなくなったからかもしれない、と一応は警戒しているが。

 座った後に、J師と参会者でコーヒーを飲みながら語らうのだが、毎回このときに座禅の効果を感じる。だれかと出会って同じ所にいながら一時間も黙していることなど普通はあり得ないが、あえてそうしておいてからおもむろに始まるこの茶話会が、逆に特別感があるのだ。話に特別なものは一切ない。どこにでもある世間話だ。ただ、準備運動をたっぷりしておいてからスポーツするような安心感がある。案外と自分たちの日常は、ウォーミングアップなしにだれかれと出会い、しゃべり、動いているのであって、それがためにつまらぬけがをしていることだってあるのかもしれない、なんてことを思う。

 何の話からだったか、僧侶が剃髪するのはなぜかというのをその会で初めて聞いた。お坊さんが頭を剃っていることを、なぜという問いから見てみたことはこれまで一度もなかったので、聞いてなるほどと思った。要するにあんなものは煩いのもとだというのである。髪は装飾だから長短だの形だのと気になる。そんなもん捨ててしまえ、というのが仏教のアナーキーなところでとてもおもしろい。

 この時の話が記憶の隅っこに残っていたようで、9月の終わり頃、そろそろ散髪行かないとなと思ったときにふと浮かんできた。そうか、伸びた髪が気にかかるのも、ハゲを隠したくなるのも、煩いの元を所有しているからだ。そう考えたらちょっぴり心も躍って、10月1日の何やらきっぱりとした感じのする日に、行きつけの散髪屋に行った。いつも刈ってくれる男の理髪師が、「短くですか?」とこれまたいつも通りに聞いてくるので、「丸刈りに」と言ったら、「えっ」と言ったまま手を止めた。「なんでまた」と聞き返されるほど気安くはしていないので、後ろで混乱している気配がした。そうして小声で何やら話して、いつもは洗髪やひげ剃りを担当する年配の女性に交代した。本当の実力を秘し、若手に花を持たせて裏方に回っている師匠格がついに重い腰を上げた、といった風情で心の内で笑ってしまった。