老い老いに 9

 2年目に突入した夕焼け通信には次々と新たな書き手が現れ、内容も多彩になる。紀行文のほか、自然の様子や身の回りの出来事、その時々の思いを綴ったエッセイが何人かから寄せられた。Mさんが寄せてくれたのは、亡き祖母が病床で書き残した手記。今読むと3年前に亡くなった義母を思い出したり、自分の行く末を想像したり…。Aさんは、それまで父のする昔語りに耳を貸さないでいたが、あることがきっかけで老いた父の過去に向き合うことになる。次々と知らされる事実に思いを巡らし、次第に二人の距離が縮まっていく様を描いた「父の後ろ姿」はなかなかの圧巻で、まるで連続ドラマを見ているようだった。次の回を心待ちにして読んだものだ。編集長の転勤先の隠岐で新たな書き手として加わったRさんは、知的障がいを抱える成人の施設にお勤めの方で、内地留学をした際に私はそこを見学していた。障がいが重かろうが軽かろうが朝玄関から出て、それぞれに合った活動や労働をする暮らし、ここぞあるべき施設の姿だと思ったものだ。Rさんは施設の理念や現在の在り様をさらに詳しく書き、ワークショップの様子も書いて下さった。障がい児教育に携わる者としては、いちいち頷けるものであったし、勉強になった。編集長からは、「磯釣り師」と紹介されているRさん。施設についての連載の後は「隠岐島後釣り紀行」が始まる。

 さて、私はというと、何と大それたことに、「野の草木と万葉」と題して、万葉集の歌を取り上げ、1年間連載している。学生時代に研究室の旅行で奈良へ行った際、今は亡き犬養孝先生が山辺の道や甘橿丘を巡りながら朗々と詠われた万葉集の歌がずっと心の底に残っていた。普段手にすることも読むこともないので、こうして書くとなると読めるのではないかと思ったのだ。しかし、当時の日記を読み返すと、仕事をしながら3人の子育て真っただ中で、欲求不満で替わり番に調子を崩す子どもたちに振り回され通しの日々。いつ本を読み、いつ原稿を書いていたのだろう。HさんやOさんから原稿を受け取り、ワードで打ってもいた。若かったのだ、あの頃は。エネルギーに満ちていた。忙しいからこそ、少しでも時間を見つけて何かをやろうとする自分だった。