がらがら橋日記 出雲弁のはなし⑤

 全編出雲弁落語をともかく一つこしらえて、その子に見せてみようと考え、共通語テキストの翻訳にとりかかった。これが自分でやっていておもしろくてならなかった。これまであまた文章を書いてきたが、ほぼ100パーセント無表情か眉間に皺を寄せているかしている。それが声を出して笑ってしまうのである。登場人物は明らかに、東京か大阪の人から、松江の、ぼくが子どものころそこらじゅうにいたおっつぁん、おばさんになった。彼らのいる空間さえ、ぼくのよく知っている場に変わった。

 落語のもっている空気感はこれだなと思う。東京落語が描く長屋とは、その作者あるいは演者が生まれ育ったところを描いているのであって、それが濃密な分だけ、そこで暮らしていない者にはハンディになるのだ。外国文学を読んでいるようなものか。別にそれでおもしろさが減じることはないし、理解しにくいこともないのだが、なじみの濃淡は、鏡胴をくりくりと回してピントを調整しなければならないが、出雲弁だとほぼ無条件で合う。おっつぁんもおばさんも生き生きと動き出す。これには驚いた。

 しかし、それは出雲弁を浴びて育ったぼくの感じるところであって、これからそれを話そうとする子どもたちにとってはまったく逆になる。

 テキストを渡し、何度か読み聞かせ、あとは自分でやって、というのが通常のぼくの稽古パターンだ。わが落語教室では、稽古とは公演に向けての練習を意味し、どの程度するかのさじ加減は子どもや保護者に委ねている。公演前に「お願いします」と連絡が入れば、子どもの話を聞いて、気の付いたことを指摘し、じゃあ本番がんばってね、で終わり。

 しかし、出雲弁落語の場合、テキスト通りに言えばいいから、というわけにいかない。アクセント、イントネーション、一つ一つやってみせる必要がある。これは実際に難しかった言葉の一つだが、自分を指す「おら」という代名詞をその子は2拍目を下げて発音する。子どもにとってはその方がなじみがある。でもそれだと出雲弁には聞こえない。どこか別のいなかの人物になってしまう。ここは2拍目を上げないといけない。指摘すると直る。ぼくはなじみの「おら」に出合い安心する。ところがなじみの薄いその子は、しばらくするとまた出雲人ではない「おら」になってしまうのだ。

 でも、そんな小さなやりとりが無性におもしろかった。苦労して何とか完成させたその子が全編出雲弁落語をこの夏高座にかけた。とってもウケた。ぼくが書いててウケたんだから、子どもが語ればなお楽し。