老い老いに 6 

 週1回という無謀な宣言をして始めた「夕焼け通信」。何とか1年続けることができ、部数も30部から80部に増えた。そんな時、発起人であるNさんと編集長が転勤となる。そこで、夕焼け通信の拠点は編集長の転勤先の隠岐へ移ることになった。それを機に、夕焼け通信社と名を改め、発祥の地秋鹿を松江支社とし、さらに瑞穂町には石見支社ができた。その少し前、編集長はパソコン通信を始めており、原稿のやり取りや編集した通信のやり取りがパソコン上でできるようになっていた。本社でも支社でも同じスタイルの夕焼け通信が印刷できるのだ。松江支社では、パソコン音痴の私にそのような芸当ができるはずはなく、同僚のTさんが編集した通信の受け取りや印刷を引き受けてくれることになった。「二年目を迎え、わたしたちは夕焼け通信社を結成しました。夕焼け通信に携わってくださる人たちは、すべて社員社友です。」と、1994年4月4日、第42号の編集後記にある。その言葉からすれば、Tさんは松江支社の要の社員である。

 夕焼け通信社が複数個所にできたことから、これまでの投稿者に加え、新たな書き手が続々と登場する。編集長との関わりから投稿が始まった茨城のYさんは、折々の思いを綴ってくださった。遠方からの寄稿はパソコン通信ならではのことだ。内地留学中に自身の研究テーマに取り組むため秋鹿小学校へ時々来られるようになったMさんは、祖母が病床で認めた記録文を初盆の供養として寄せてくださる。秋鹿小学校の教員Oさんは娘さんの友だちとの関係でイギリスに行かれることになり、その紀行文を連載された。さらに、編集長の先輩で、隠岐の社会福祉法人に勤務のRさんは、その後さまざまな話題で投稿を続けてくださることになる。

 そこに石見支社からや松江支社のTさんから支社便りが加わると、これまでのB4版4段組み一枚(時々裏面にも印刷していた)では紙面が足りなくなった。そこで、B4版を半分に折ったB5版で3段組み4ページ(多い時には6ページ)へと体裁を変えることになる。第63号からのことだ。