老い老いに 1
夕焼け通信という週刊通信が始まったのは1993年4月。その頃の私はまだ30代だった。子育て真っ最中で、長女が5年生になり、長男が小学校に入学したばかり、二男は保育園の年少だった。毎日追い立てられるような生活で、朝洗濯物を干し終えると、子どもたちにご飯を食べさせ、長女と長男の小学校への送り出しは義母に任せて二男を保育所に預けてから職場に向かう。仕事を終えると二男を保育所に迎えに行き、帰るとすぐに夕ご飯作りにかかる。皆に食べさせた後は、片付けをし、風呂に入れて寝かせる。仕事の面では特別支援教育への道へと踏み出し、内地留学を終えて新しい学校に赴任して2年目に入った年だ。
今、長女は仕事をしながら、4年生の長男、二年生の長女、年中の二男を育てている。土曜日に子守に行くと、子どもたちにご飯を食べさせながら、夕ご飯の下ごしらえをしたり、保育園のノートに書き込みをしたり、ひと時としてじっとしていない。動きながら、「ほら、早く食べなさい」「ゴロゴロしないの」「歯磨きだよ」と、口も盛んに動いている。いやあ、大変だなと思いながら、孫たちの相手をしているのだが、昔の日記帳を読み返すと、同じような日々を送っていたのだなと改めて思う。
子どもたちが次々に家を出、義母を送って夫婦二人の生活になると、心を掛ける対象がすぽっすぽっと抜けていき、空いた穴をどうやって埋めようか考えるようになった。ところが、何かをしようと思っても、なかなか腰が上がらないし、始めたとしても続かない。気が付けば、走ることもできなくなり、段差を越えようにも脚が上がらない。これまで平気で待ちあげていた物が動かせない。視界を蚊のような黒い点が飛び交い、眼鏡なしじゃ本も読めない。雨音が聞こえず、人の話の半分ほどしか聞き取れない。五感は元より気力も体力も落ちてしまい、できることの範囲が随分狭まってしまっている。追い打ちをかけたのは車庫での事故。「老い」という大きな垂れ幕が目の前にかざされた感じだ。この「老い」は、どこから始まっていたのだろう。「おいおい」にやって来た「老い」。夕焼け通信の歴史をたどりながら、今日に至る自身の「老い」の過程をたどっていこうと思う。