ニュース日記 935 マインド資本主義

30代フリーター アベノミクスで長期にわたって金融緩和を続けたのに、デフレから脱却できず、景気もたいしてよくならなかった。ところが、コロナとウクライナ戦争でインフレになると、逆に米欧では金利を上げても物価の高騰を抑えられなくなった。金融政策はかつてのような物価や投資をコントロールする力を失い、せいぜい為替相場を左右するくらいしかできなくなったのではないか。

 そんな趣旨のことを永江一石というWeb系マーケティングコンサルタントがXに書いていた。そこから、景気を左右する力は国の政策よりも国民のマインドのほうが大きいという結論を導いている。

年金生活者 現在の資本主義がモノの動きだけでなくココロの動きに大きく左右される「マインド資本主義」とも呼ぶべき段階に達したこと、かつてのようなマルクス主義的な唯物論だけでは経済の変動を説明できなくなり、唯心論的な理解が必要になったことを意味する。

 景気がマインドに左右されるようになったという意味は、GDPの50%超を占める個人消費が買い手の気分に左右される度合いが大きくなったということだ。消費支出に占める選択的消費の割合が必需的消費のそれと肩を並べるまでに増え、消費の半分は個人の心持ちによって決まるようになった。資本主義が富の稀少性の縮減を加速した結果にほかならない。

 金融政策、すなわち金利の操作は、カネの値段をコントロールすること、そのカネと結びついたモノやサービスの値段をコントロールすることだ。だが、モノやサービスの需要が、「必要」だけでなく「選択」によって決まる度合が大きくなり、両者が同じくらいになったため、金融政策はかつての半分くらいしか機能しなくなった。アベノミクスがデフレ脱却に効かなかったのは必然であり、モノやサービスの供給を直接止めるパンデミックや戦争によってやっとインフレになった。

30代 ゼロ金利政策だけでなく、財政政策もデフレ脱却には効果がなかった。

年金 金融政策の場合と理由は同じだ。ところが、各国ではいまバラマキ政策が目立つ。景気刺激にあまり役に立たないのに、それをするのは、国民の人気取りと企業へのサービスが狙いだろう。

 つくる端からモノやサービスが売れた高度経済成長の時代が去った今、補助金のバラマキは企業にとってありがたい。アベノミクスでバラまかれた補助金は企業にイノベーションをサボらせ、多くのゾンビ企業を生んだと指摘されている。

30代 先週、ジイさんが資本主義のあとずさりを説明するのに使っていた柄谷行人の交換様式論からは、景気や物価を左右する消費者のマインドは見えてこない。

年金 格差や貧困が広がったとは言っても、飢えて路頭に迷ったり、寒さで行き倒れになったりする人びとが相次いでいるわけではない。国民の生活は、所得が右肩上がりだった高度経済成長の時代にくらべても、はるかに安全、快適になっている。安い衣食が飢えと寒さの防波堤になり、スマホが次々と娯楽や社交の機会を提供している。つまり貧乏でも、以前にくらべればずっと便利で心地よい暮らしができる。

 その姿は交換様式論からは見えない。交換の両端にある生産と消費の過程が捨象されるからだ。その結果、現在の社会でどんなモノやサービスが生産され、それがどのように消費されているかが見えにくくなる。別の言い方をするなら、交換価値だけに光が当てられ、使用価値は陰に置かれる。

 格差と貧困の拡大とは交換価値の偏りのことだ。先進諸国で大多数の人びとが手にする交換価値の取り分の割合は確かに減った。だが、使用価値は逆に増えている。富の稀少性の縮減がそれだけ進んでいるということだ。交換価値が増殖していた高度経済成長時代には、今のようなファストフード店もファストファッションの店も、スマホもなかった。

30代 消費者の気分に左右される資本主義はこれから先、どこへ向かうんだろう。

年金 生存に必要な衣食住の必需的消費には限度がある。金持ちも貧乏人も、着て食べて住むという消費行動の基本は同じであり、違いは高級品を使うかどうかといったような程度の差しかない。

 資本主義は、そうした必需的消費の限界を埋めるために、選択的消費の新たな対象を開発し続けなければならない。すでに一定水準まで満たされている衣食住に何か新しいものを付加するだけでは、買う側は物足りない。今までなかったような消費対象をつくらなければならない。そのひとつが生産活動を消費の対象として売ることだ。

 ブドウ狩りや梨狩りはその先行例だ。農作業やアクセサリー製作、和菓子作りなどを体験できるサービスも数多くある。モノのインターネットが広がり、3Dプリンターが高性能化、低価格化すれば、必需的消費の対象も自前でつくれるようになり、消費と生産はいっそう接近するだろう。

 未来を知ることは過去にさかのぼることだという吉本隆明の考えにしたがうなら、生産と消費が一致あるいはとても接近していた狩猟採集社会がいくたびも未来社会のモデルにされてきたことは納得できる。