がらがら橋日記 お返し

 先月、コロナ患者急増のニュースが流れ始めたころにしっかり罹った。発熱、味覚障害、蕁麻疹、執拗な倦怠感など聞いていた症状を一通りさらうような半月を過ごした。しばらく稽古を休んだが、再開した矢先に今度は稽古場のサ高住に感染者が出た。幸いなことに広がりはしなかったのだが、大事を取って稽古場の提供を当面停止するからと連絡があった。初めから予想していたことで、当然の対応である。だがそうなると、塾の教室で稽古するほかない。

 半年前に移転した教室は、住宅街にある単身者用2DKである。これまで常時公開、どなたでも見に来てください、いつも常連さんたちが見守っています、など稽古の売りにしてきたが、一時的にせよそれができなくなった。以前に一度だけこの教室で稽古したが、子どももぼくもまったく調子が出ず、やはり聞き手がいる環境は必須だと確信していたので、仕方がないとは言え何とも悩ましかった。稽古休止もチラと頭をかすめたが、いざ六畳一間のお客もいない稽古場で子どもと一対一で向き合うのだと思ったら、不思議とやってみたいことがはっきりと浮かんできた。同時に、これまでの稽古に一種のもどかしさを感じていたことにも気づいたのだった。

 東奥谷ではいつも4,5人、サ高住では10人あまり、ぼくの後ろで子どもの話に耳を傾けている人たちがいる。ただ黙って聞いて、おもしろいときには笑い、終われば拍手する。口を挟むことなどないので、ぼくはお客さんの存在を意識せず、子どもに言いたいことを遠慮なく言えそうなものなのだが、実はそれが難しい。子どもだけに言っているようで、背後のお客さんにも言っているし、子どもたちもぼくの話を聞いているようで、お客さんの中に混じって一割くらい他人事のように聞いている。狭小アパートの一室で一対一の稽古をしてみたら、そのことがよくわかった。

 先日、市内某公民館で寄席をした。子どもたちの落語の変化をはっきりと感じた。一対一の時に伝えたことを話の中にいくつも拾えた。それはとても繊細なもので、つまみをいくらか上げ下げする調整程度なのだが、お客さんに伝わるかどうかはそれが大きく左右する。子どもたち自身がそれを感じているらしいのがわかると、これぞ落語の醍醐味よ、と思う。六畳一間も捨てたもんじゃなかった。

 公開していていつもだれかが見守ってくれています、そんなふうに言える稽古環境はこれからも貪欲に求めたい。でも、それだけではないよな、と今は思える。まあコロナにはひどい目に遭ったので、これぐらいのお返しはいただかねば。