がらがら橋日記 高座名②

 高座に一人で上がり、お客様に相対して何かしら話す。同種の表現は世に数多あるのだろうが、それを極限までシンプルにしたものが落語だと思う。長い時間をかけて洗練されていった話を聞かせるのが基本ではあるが、それがすべてではない。最低限の形式さえ守れば、できることは驚くほど広がる。落語教室と銘打っているのでどうしても落語を中心に据えるが、本心ではイメージにとらわれず好きなようにやってくれ、と思っている。

 惜しくも今年の一月亡くなってしまったが、林家正楽は生涯紙切り芸一筋だった。何度か高座を見たが、紙を切っている間、客の息が詰まらない程度にわずかにしゃべり、体を揺するだけなのに、不思議と見入ってしまう。切り絵ができて額に収めて見せると、客はそこに物語を読み取り、オチを理解して安堵する。言葉を使わないというだけで、これもりっぱな落語だ。

 落語の歴史をひもとけば、圓遊のステテコ踊りだの猫八の動物ものまねだの、形式内で多種多様な表現が行われてきたのだし、固定されるのをいやがる精神はいつだって何かを生み出す。

 教室生にぬり江という子がいる。名前を決めるから好きなものを言ってごらん、と聞いたら塗り絵と答えた。言葉の響きが名前っぽいから、ああおもしろいじゃない、とすぐに決まった。絵じゃなくて塗り絵が好きなのかと尋ねると、あまりはっきりとは答えなかったが、どうやら色を塗るほどには絵を描くのに自信がなさそうに見えた。

 正楽のように、客からお題をもらってその場で切り絵にして見せるというのはできないけれど、制作部分を省いたところはできる。マクラとして絵を見せたらどうかと勧めた。しばらくは、桜や梅など季節の植物の下絵に色を塗ったものを見せて、どんな工夫をしたかなどを話していたが、べったりとした等質の線は檻となってぬり江を閉じ込めているように思えた。

 ところが、稽古場でお客さん相手に見せているうち、やがて塗り絵ではない描画も交ぜるようになり、ついには一から描いたものだけになった。いろいろな技法を試してみることにも貪欲で、上達も著しい。このごろは、絵にちなんだなぞかけやクイズも勧めてみたら、喜々として取り組んでいる。

「もうぬり江という名前じゃ合わなくなったね」

と言ったら、にっこり笑った。ぬり江という名には、名付けたときの自己認識が閉じ込められている。お客さんと関わることでそれに裂け目が生じ、塗り絵では満足できない自分が現れた。名付けたことをきっかけにそれを乗り越える、そんな高座名もある。