ニュース日記 930 見ることと見られること
30代フリーター ジイさん、暑いのに、朝の散歩まだ続けているのか。
年金生活者 散歩でいちばん気をつけているのは、暑さや寒さより、すれ違う相手と目が合わないようにすることだ。視線が正面衝突したとたんに、心に亀裂が走り、歩くことで上向き始めていた気分を再び低空飛行に向かわせる。だから、まず相手を見ないようにしないといけない。見れば見返される危険が増す。
30代 やっかいな散歩の仕方をしてるんだな。
年金 本質的なことを言うと、見ることは見られることでもある。それは人間や動物を見る場合だけに限らない。自然物を見るときも、人工物を見るときも、私たちはそれらから見られている。ふだんはそう感じないが、ふとした瞬間に花や山が、看板や窓がこちらを見ていると感じることがあるだろう。
30代 錯覚ならあるかもしれない。
年金 精神分析家のラカンは若いとき漁を体験したことがあり、そのとき、日差しを受けながら波間に漂う缶詰の缶を見て、缶のほうもこちらを見ていると考えたことを打ち明けている(『精神分析の四基本概念』小出浩之ほか訳)。「その缶は光点という意味で私を視ているのです」と。
マルクスは、人間は自然に働きかけるとき、同時に自然に働きかけられる、と考えた。人間は自然を人間化すると同時に、その自然によって自然化される、と。感覚にこの自然哲学を当てはめるなら、触覚が最も実感的に納得できる。何かを触ることはそれから触られていると感じることでもある。
これに対し、視覚や聴覚、嗅覚や味覚の場合はそうした実感があまりない。しかし、見るためには身をさらさなければならない。目だけを身から離して対象物に近づけることはできない。見られる対象となることは避けられない。聞く場合も、嗅ぐ場合も、味わう場合もそれは同じだ。
30代 比喩としてならそう言えるかもしれないが。
年金 ラカンは同じ著作で見ることについて「おそらく私の目の底には絵が描かれているでしょう」と言い、「しかし、私はといえばその絵の中にいます」とも語っている。「光であるものが私を視ています」と。「そしてこの光のおかげで私の目の底には何かが描かれます」と結論づける。
見られることなしに見ることはできない。彼はそう言っている。なぜなのか。朝の散歩の途中、歩いて行く先に立っている電柱を見ながら考えた。ラカンの言う通りなら、自分はこの電柱に見られていることになる。そのさまを想像してみた。電柱は、私自身にはほとんど見えていない私の顔や胴体や四肢の前面を見ている。それらがこのまま進んで来れば自分にぶつかる位置関係にあることも見ている。
一方、私は円筒形の電柱の半円分を見ていて、このまま進んでいけば、自分の胴体や四肢の前面がそれにぶつかることも承知している。では、なぜ、それが自分にはほとんで見えていないのに、電柱にぶつかるとわかるのか。電柱のほうがそれを見て知っているからだ。私はその視覚像を無意識のうちに想定して歩く方向を修正する。
30代 無生物に見られているという実感は持ったことがない。
年金 ラカンは次のようにも言っている。「ものの側に眼差しがある、つまりものの方が私を視ている、しかしそれでも私はそれを見ている。まさにこうした意味でこそ『人は見ないために目を持つ』という福音書の言葉は理解されるべきです。何を見ないためでしょうか。まさに、ものが人々を視ているのを見ないためです」(前掲書)
ふだん「ものの方が私を視ている」ことは「実感」されない。それは別の「実感」、すなわち目の作用による「実感」によって覆い隠されているからだ。ラカンはそれを「人は見ないために目を持つ」という福音書からの引用によって言い表している。
ものに見られるとはどういうことかを、わずかでも「実感」に近い言い方で示すために、立方体を見る場合を想定してみる。立方体は6面体だが、私たちの目はそのうち最大3つの面しか見ることができない。つまり3つの平行四辺形がつながっているのが見えるだけだ。にもかかわらず、それを6つの面を持つ立体物として見ることができるのは、目には映らない裏側の3つの面を見ている、向こうからの視線を想定しているからだ。
この想定は、目の作用による「実感」に覆われているので、ふだんは意識されることがない。ものに見られているのに、それを「実感」できないのは、この立方体の場合と同様と考えることができる。視線の向かう先が異なるだけだ。前者の場合はものを見ている自分に、後者の場合は立方体に向かっている。
歴史をさかのぼれば、それが「実感」される段階があった。「自然物はみな擬人としての神」とみなされた「アフリカ的段階」だ(吉本隆明『アフリカ的段階について』)。そこでは生物も無生物も「擬人としての神」だから、それらに見られることは普通のこととして「実感」されていたはずだ。現在は科学的なものの考え方がそうした信仰を後退させ、ものに見られる「実感」は錯覚や精神の失調によってしか得られないものになった。