ニュース日記 927 性と差別

 

30代フリーター 経団連が選択的夫婦別姓制度の早期導入を政府に求める提言を公表した(6月10日朝日新聞デジタル)。

年金生活者 夫婦同姓の強制が資本主義の足かせとして作用する度合いが強まったことのあらわれだ。資本主義的な合理性が「良き習わし」を壊すことを嫌がる保守派はいっそう導入反対の姿勢を強めるだろう。

 興隆期の資本主義、第2次産業を牽引車とした産業資本主義は、自由で平等な労働力を利潤の源泉として発展した。自由とは自由な売買、つまり交換可能性を、平等は性差や出自を捨象した均質性を意味する。資本主義は今で言うジェンダー平等を必要とする特性をもともと持っている。

 夫婦同姓の強制は事実上、女性差別につながるので、資本主義の求める労働力の交換可能性と均質性に反する。女性にとって、それは姓の変更や旧姓の通称使用にともなう非効率、トラブルの発生、制約となってあらわれ、労働市場への参入障壁として作用する。労働力を買いたたきたくて常にその供給過剰を望んでいる資本にとってそれは不都合なことだ。少子高齢化の進行が、人手不足を深刻化させ、その不都合を放置できないまでになったことが、経団連を「提言」に踏み切らせたと動機と言うことができる。

30代 保守派から見れば、経団連は金もうけのために「家族の一体性」を壊そうとしているということになる。

年金 夫婦同姓は明治維新より前にはなかった「近代的」な制度なのに、保守派がその護持に固執するのは、それが江戸時代までの家族の「伝統」をいわば濃縮し、体系化したものだからだ。

 その「伝統」とは、人間を個人単位ではなく、家単位で扱うことを指す。江戸時代まで武士は夫婦別姓、百姓や町人は姓がなかったが、人はみな家単位で扱われ、「家族の一体性」が貫かれていた。明治になって、みなが等しく姓を持つようにしたとき、その「伝統」を近代的な法の言葉で表したのが夫婦同姓制度と考えることができる。

 明治国家は列強に伍して自らを主権国家として確立するために、米欧並みの法体系の導入を迫られた。それには国民の平等が前提となる。でないと、徴兵制を敷くこともできない。国民全員に等しく姓を名乗らせることにしたのも、そうした「近代化」の一環だった。その中に家族一体の「伝統」を埋め込んだのが夫婦同姓を強制する民法だった。

30代 自民党政府は経団連の提言を受け入れるだろうか。

年金 保守派が守ろうとするのは、存続の危うくなった伝統だ。それを守ることが保守派の存在理由となる。西欧の保守主義はフランス革命によって危機に瀕した伝統を守ろうとして生まれた。日本の保守派にとって、夫婦同姓制度は危機に瀕した、守るべき対象の典型にほかならない。

 夫婦同姓制度の存続は経団連にとって不都合なことではあっても、自らの存在理由を脅かすものではない。これに対し、夫婦別姓制度の導入は保守派の存在理由を脅かすだけなく、自民党の権力の源泉のひとつを涸らす恐れがある。この党が経団連の提言を受け入れることはないだろう。

30代 現在の世界では、ジェンダーをめぐる考えの違いが、格差や貧困の問題以上に左右の対立を先鋭化させている。

年金 初めに言ったように、第2次産業を牽引車とする産業資本主義は、性差を捨象する均質な労働力を利潤の源泉として発展した。その意味で資本主義はジェンダー平等に寄与してきたと言える。しかし、現実には不平等を残し、ときにはそれを助長した。その直接の理由は、第2次産業の労働が筋力に依存する特性を持っていることにある。それは農業労働よりもきわだっており、筋力で女性よりまさる男性は労働力として優遇された。

 だが、資本主義が第3次産業を牽引車とするポスト産業資本主義の段階に移ると、労働における筋力の優位性は消失し、男性を優遇する理由はなくなった。しかし、女性の労働力に対する低評価はイデオロギーと化して定着した。

 それに対して、女性への差別の撤廃を求める声が左派、リベラル派からだけでなく、資本の側からもあがるようになった。資本主義は性による差別を残らずなくすことを要求する段階にまで発展したと言うことができる。右派、保守派にとって、それは資本主義が最後に残した「良き習わし」の破壊を意味する。彼らが選択的夫婦別姓の導入に執拗に抵抗する理由がそこにある。

30代 世界経済フォーラムの2024年版「世界男女格差報告書」によると、日本のジェンダーギャップ指数は146カ国中118位で、G7で最下位だ。

年金 性は差異によって成り立つ。男性性と女性性の差異だ。

母と一体だった胎児は、この世界に生まれ落ちたとき、母とは異なる個体の乳児となり、差異を背負わされる。その解消、すなわち母胎の楽園への帰還は生涯にわたって消えない願望となる。しかし、それはかなうことのない願望であり、それを代替するのが性にほかならない。性が差別を誘いやすいのは、その本質が差異にあるからだ。公私の分離が今なおあいまいな日本では、差異と差別の境界もまたあいまいになる。