ニュース日記 914 なぜ人を殺してはいけないのか
30代フリーター 「国連憲章51条に従って特別軍事作戦を始める」。2年前、プーチンはそう言って自衛の名のもとにウクライナ侵略を開始したことを先日の朝日新聞が伝えていた(2月26日朝刊)。「ロシアのウクライナ侵攻によって国際法の不存在が露呈した」と指摘する国際法の研究者(国際教養大教授・豊田哲也)のコメントを付けて。
年金生活者 たとえ国際法が「不存在」だとしても、ロシアの侵略は許せないというのが世界の諸国民の多くの実感だ。それは、国連総会の何度にもわたるロシア非難決議が示している。
9・11同時多発テロのあと、吉本隆明は「人間の『存在の倫理』」という言葉を使ってテロリストたちを批判した(『超「戦争論」上』)。私の理解では、この「倫理」は人間の存在そのものの抹消を否定することを究極の規範としている。ロシアはそれに反して、ウクライナ国民の殺戮を始めた。世界の諸国民の多くはそれを人間の存在そのものを否定する所業と受け取ったはずだ。
いや、ロシアは自衛権を行使しているんだ、ウクライナ東部ではロシア系住民がウクライナ軍から攻撃を受けているし、ウクライナ政府はロシアを敵視する西側の軍事同盟NATOに加盟しようとしているのだから。そんな言い分がすべて正当だとしても、ウクライナへの武力攻撃は「人間の『存在の倫理』」に反する。
ウクライナの政権が腐敗し、ネオナチの影響を受け、戦闘中に残虐行為をしているのが事実だという前提に立ったとしても、ロシアの侵略に抵抗する戦いは「人間の『存在の倫理』」によって正当化される。それは人間の存在そのものの抹消に対する抵抗だからだ。
30代 ウクライナ軍が東部のロシア系住民を攻撃するのはその倫理に反していないのか。それに対するロシアの自衛権の行使は倫理にかなったものではないのか。そんな反論が想定される。
年金 ウクライナ軍によるロシア系住民の殺害があったとすれば、たしかにそれは「存在の倫理」に反する。住民がそれに抵抗して反撃するのはその「倫理」にかなっていると言える。しかし、だからといって、ロシアが国家としてウクライナの領土に軍隊を送り、首都まで攻撃し、無関係の大勢の住民の命を奪うことは正当化されないし、明確な「存在の倫理」違反と言わなければならない。
この「倫理」に直接ロシアの侵略を止める力はない。それは国際法も同じだ。だが、この「倫理」は法を超えた規範として、ウクライナ国民の抵抗とそれに対する諸国民の支援を支える力となり得る。
30代 イスラエルに対して最初に奇襲攻撃を仕掛けたハマスは、ウクライナに先に攻撃を仕掛けたロシアと同様に「存在の倫理」に反していないか。
年金 当然それも反している。
30代 ただ、先に倫理に反することをしたのは、不法、非道な占領を続け、多くのパレスチナ人の命を奪ったイスラエルのほうであり、それに対抗する攻撃は倫理にかなっているという反論も成り立つ。
年金 人間の存在そのものの抹消を否定する「人間の『存在の倫理』」が例外としてその抹消を容認することがあるとすれば、相手が死ぬかもしれないほどの反撃をしないと、自分の命が奪われるかもしれないという差し迫った危機に遭遇したときだけだ、と私は理解している。過去に家族や仲間を殺された報復として他人の命を奪うことをこの倫理は許容しない。
イスラエルがいまハマスの根絶やしを目指して続けているパレスチナ自治区ガザへの無差別的な攻撃は報復の域をも超えており、当然この倫理を大きく逸脱しているといわなければならない。ハマスの奇襲攻撃はそれを正当化する根拠にはならない。世界の諸国民の多くはそれを感じてイスラエルへの嫌悪感を強めている。それは国際法違反を盾にした批判よりも根源的だ。
30代 吉本は単に「人を殺してはいけない」と言っているだけではないか。それをわざわざ「人間の」とか「存在の」といった言葉を使って言う必要があるのか。
年金 彼はこの「倫理」によって、ただ「人を殺してはいけない」と言っているのではない。「なぜ人を殺してはいけないのか」という根源的な問いに応答している。それは彼の次のような説明からうかがうことができる。
《「人間の『存在の倫理』」という言葉でいっていることの意味は、この世に存在してしまったということ、そのこと自体によって、必ず自己と他の存在に影響を与える、与えてしまうことがあるよってことなんですよ。「それは、免れないよ」ってことなんです》(『超「戦争論」上』)
「必ず自己と他の存在に影響を与える」ということは、「自己と他の存在」に対する責任が生まれるということだ。それは自己と他者の「存在」の「肯定」を前提にしており、それを「否定」すること、その生命を奪うことは、「この世に存在してしまった」以上は免れない「責任」を免れようとすることを意味する。
言い換えれば、人を殺すことはおのれの「存在」の前提を破壊することであり、人間が生きようとする限り、最低限してはならないことだという意味になる。