がらがら橋日記 村山籌子

 

 あひるさんは、なきながら学校から帰ってきて、おかあさんにもうしました。

「おかあさん、先生からいただいた月しゃのふくろをおとしたの。先生にしかられると、いや。」

 この少し奇妙な書き出しに引き込まれてしまった。理由はいくつか思い当たる。子どもが学校から泣いて帰るという出来事が、身近にあったこと。あひるさんの言葉から引きずり出された記憶が一瞬にしてぼくの中に広がったこと。もう一つ、戦争をしている遠い国の反体制指導者が獄中で亡くなったこと。

 小学校に上がったころ、ぼくはよく教科書や教具をなくした。何をやっても周りの子どもに後れを取ってしまう子だった。生来の性格、資質によるのかもしれないが、3月生まれで十分に発達していなかった。人の話を聞くのも苦手だったので先生の指示どおりに動けず、ぼんやりしていることが多かった。動じない図太い子に見えたかもしれないが、本人はとってみればただ頭の中に霞がかかっているだけで、周りが別のスピードで流れていることがかなり怖かった。

 時間割をしているときに、あるはずの教科書が見当たらないと押し寄せる不安に身が竦んだ。母親に言うと、「お前がらしがない(だらしがない)けんだ」

と叱られて、不安はさらに膨らんだ。らしがないのは事実だが、整理整頓など難しいことができるようになるのは、もう少し先のことなので、ただおろおろとするしかなかった。

 翌日は、机の中に教科書がありますように、と一心に祈って学校に向かった。机の上蓋を持ち上げてそこにしまい忘れた教科書が見えると、パンパンに膨らんでいた不安は、一気に粉々に消えてなくなった。でも毎回ではない。暗い予感が的中して、何度ひっくり返すようにして探しても出てこないことがあった。

「ああ、わたしが月しゃのふくろやさんだったら!わたしはどんなにさいわいだったろう。わたしはこんなにしんぱいしないでもすんだのに。そして、わたしは月しゃのふくろをなくして、しんぱいでしんぱいでないているせかいじゅうのこどもに一まいずつただであげるのに!」

 心配に押しつぶされそうになっているあひるは、そのままあのころのぼくだ。不安に必死に耐えている幼い心を活写した童話作家の名は、村山籌子。戦前に優れた作品を次々出すも、戦争への協力を拒み筆を断つ。昭和21年42歳の若さで亡くなった。

 ある人から教わらなかったら、この作家を一生知り得なかった。今は押し黙るしかない人たちの声がいつか聞こえてきますように。