空き家 6 墓③

 

 寄墓にして墓石は一つになりすっきりした。花ノ木も一対挿せばよいし、線香も一か所に立てればよい。かつてのように一人ひとりに墓石を建てていると、土地がいくらあっても足りなくなる。

 娘がまだ独身だった頃、韓国に一緒に行ったことがある。その時、ガイドさんがバスの車窓からお椀を伏せたような形の小さな土の山を指して、「あれが、韓国のお墓です」と教えてくださった。イスラム教などのように、宗教によって土葬を基本とするところがある。韓国は儒教の関係なのか、明らかに土葬だと思われるぽっこりした墓だ。あんな大きな墓、よほど広い土地を持っていないと作れないだろうなと思いながら眺めていた。

 うちも祖母までが土葬で、父や母は火葬になった。初めて火葬に立ち会い、父の棺桶が火葬炉に入れられた時のことは忘れられない。火を入れるボタンを押した途端、泣き崩れてしまった。火葬というのは、生前の姿が全く違ったものになってしまうという残酷さがある。それが一区切りになるという点からは、生と死の境を明らかにしてくれるのかもしれない。 

 わが国では、まだ土葬が可能なところがあるようだが、許可が要るそうだ。99.97%が火葬だという。土饅頭型の墓だった韓国も、今では火葬が多くなり、土地の有効活用のために樹木葬にしたり、納骨堂に収めたりロッカーのようなところに納骨したりということが増えてきているようだ。時々新聞に樹木葬を行っているという寺のチラシが入っている。そういうのを見ると、墓についてのこれからを否応なく考えさせられる。

 強い思いで寄墓を作り、40年近い間、盆や彼岸だけではなく、母の日や命日にお参りしてきた。実家の墓だけでなく、伯父や伯母の墓参りも加わり余計大変になったこともあるが、私たちが居なくなった後、誰が掃除し、お参りするかということだ。寄墓に入った最後が母だ。その母を知る者は、我が家では私以外夫と娘だけだ。娘も、自分の家族を持ってからはほんの数えるほどしか墓に参っていない。