がらがら橋日記 抱負
とある昼食会に出たら、食後のちょっとけだるい空気を払う感じで、
「年明け最初の集まりでもあるし、せっかくだから今年の抱負を言ってもらいましょう。」
と幹事氏が言った。「じゃあそこから順番に」と指名された人が幸いにもテーブルの向かい側だったので、少し時間が稼げた。つきあいの深浅はあるが、さほど気遣いのいらない人たちだったので、何を言おうかを考える前に、「そもそも新年だからと抱負をもったことなどあっただろうか」と考え始めてしまった。抱負とは、こうなりたいという願望をちょっと具体化させた計画のようなものだから、目標ほど距離感はないが、あて、というほど近くもない。あれこれと探ってみたら、どうやらぼくは抱負などもったことないぞ、という結論に至った。
「一年の計は元旦にあり」と世間では言うから、学級担任をしているときは、年明けの始業の日は、子どもたちに何やら書かせて掲示するということを、したりしなかったりした。あまり徹底してしなかったのは、自分が年の初めだから抱負を抱く、という意識がなかったからである。自分が書かされる方だったら困るだろうな、という思いがあるからどことなく後ろめたさも感じるし。では、そう思うならしなければいいのだが、何となくみんなそうしている、とただ慣習に盲従してしまうのだから情けない。
一年の計を立てたことが一度だけある。どう考えてもその一度きりだ。小学校の3年生頃だったと思う。魚の食べ方が汚い、まだ食べられるところがたくさん骨の周りについているではないかと、食べる度に母親に罵られるのにうんざりして、魚をきれいに食べてやると決めた。なぜかこの抱負はずっと抱き続けることができて、やがて煮魚は、隠れた肉も箸先でほじくり出して食べ尽くし、焼き魚は、骨の硬い魚を除いて頭のみ残すに至った。これは今もそのままで、たまに居酒屋などで長角皿の隅に小さく畳んで置かれた骨とか、葉っぱとはじかみしか残っていないのを感心されることがあるが、その昔抱いた抱負の残滓なのだ。
さて今年の抱負をどう言ったものかと考え、今していることをどう発展させたいかを言えばいいか、と暮らしをなぞってみた。畑、ボランティア、塾、この三つでほぼ日々が回っている。はたと気がついた。どれ一つとっても、自分からやろうとしたことじゃない。誘われてやってみたら面白かったものばかり。順番が来た。その時思っていたことを言った。「大事なことは人が決めてくれるので、今年もそんな感じでなるようになるでしょう。」これは抱負だったろうか。