ニュース日記 908 豊かさの綻びを軍備で繕う岸田政権

 

30代フリーター 寺島実郎が先日の朝日新聞で、戦後の日本の経済成長は「敗戦を『物量で負けた』と認識し」てモノづくりに励んだ結果だと指摘していた(1月6日朝刊)。ところが、2010年にGDPで中国に抜かれ、日本人の自尊心が砕かれた、とも。

年金生活者 その認識を延長すると、「物量」の生産によってもたらされた近代で最も長い「平和」が、「物量」に頼れなくなった今、危ういところにさしかかっているという理解になる。

 戦後の高度経済成長がもたらした豊かさは戦争を抑止する力となり、憲法9条の護持を求める国民の意識とシンクロナイズした。低成長の時代に入った現在、豊かさの抑止力に自信を失い、それを軍備の増強で補おうとする焦りが政権担当者らに出てきた。

30代 寺島は「松下幸之助が唱えた『PHP(繫栄を通じて平和と幸福を)』に象徴されるように、何よりも豊かさを追求したのが戦後日本」とも言っている。

年金 「物量で負けた」という認識は、これまでの国際政治の常識では、次の戦争は「物量で勝つ」という復讐心につながるはずだが、そうはならなかった。「物量」で実現した繁栄を維持するには「平和」が必須となる。何よりも二度と戦争はしたくないという国民の意識が「物量」を戦争に注ぎ込むことを忌避した。

 世界第2位の経済大国になったことそれ自体が、他国から重視、あるいは尊重され、武力に頼らなくても抑止力を保てると考えられるようになった。同時に2位の自信が他国への攻撃的な姿勢を抑えた

30代 ところが、その余裕が失われてきた。

年金 弱い犬ほどよく吠えるという。戦う自信がないので、相手を脅して退けようとする。軍拡に走るのもそんなときだ。

 日本はそこに近づき始めた。豊かさによる抑止力が低下したと感じ、不安と恐れが自信に取って代わりつつある。それを補おうと、岸田政権が打ち出したのが防衛費の大幅増額や敵基地攻撃能力の保有だ。それらは、GDPで日本を追い抜き、それによって「物量」による抑止力を削ぎ取った中国に向けられている。

30代 高度経済成長の時代にはもう戻ることができない。

年金 高度経済成長は第2次産業を牽引車とした産業資本主義の段階に特有のものだ。そこでは、モノの大量生産、戦後の日本人が追い求めた「物量」が幅をきかせた。それは生存に必要な負担を飛躍的に軽減させるので、大量の需要が生まれた。それがGDPの急膨張を生んだ。

 その時代が終わり、第3次産業を牽引車とする現在のポスト産業資本主義の段階では、モノよりも知識や知恵がものを言う。それらは生存の負担を軽減するよりも、プラスアルファの利便性を提供するものが多いので、産業資本主義の時代ほど大量の需要は生まれない。成長率の低下は避けられない。

 敗戦まで「物量」の足りないぶんを「精神」で補おうとして悲劇に突き進み、戦後はその反動で「物量」をたのみとしてきた日本は、いまそれができなくなり、政府は場当たり的な政策を重ねるだけになっている。経済ではアベノミクスが、安全保障では軍備の急拡大が、その代表的な例だ。

30代 国民はそれを黙認しているように見える。

年金 事態の変化のとらえ方は政権担当者らとは差がある。

 さっきも言ったとおり、政権やその与党、さらに霞が関の官僚らが、豊かさによる抑止力に自信を失い始めた最大の要因は、世界における日本のGDPの順位の低下にある。中国ばかりか、ドイツにも追い抜かれ、やがてインドにも抜かれると予測されている。そんなときに「経済安全保障」が強調されるようになり、政権担当者らの危機感にさらに拍車をかけている。

 一般の国民はGDPの順位の低下にそこまでの危機感は持っていないと推察される。最大の関心事は世界でのランキングではなく、自らの生活そのものだからだ。言い換えれば、国民はGDPの規模や順位といった数字よりも、生活の利便性や快適さといった質的なものを豊かさの主要な物差しにしている。それは、こと生活に関する限り、交換価値よりも使用価値に重きを置いていることを意味する。その物差しから見れば、所得が上がっていなくても、技術の進歩や社会インフラの拡大、行政の諸制度の整備などによって、暮らしやすさを享受できることになる。

 だとすれば、GDPの順位低下を安全保障上の抑止力の低下ととらえ、それを軍備の増強で補おうとする政権担当者らの発想を国民は手ばなしでは歓迎しないはずだ。たしかに、中国の軍拡に対してはある程度の防衛費の増額はやむを得ないと考えているだろう。しかし、中国の軍拡に軍拡で太刀打ちできるものではないことは百も承知であり、むしろ岸田文雄らの主張する憲法9条の改正が「見えない抑止力」の喪失につながることを警戒していると推察される。

30代 麻生太郎は「戦う覚悟」が中国への抑止力になると言う。

年金 「物量」の足りなくなったぶんを、ふたたび「精神」で補おうとするなら、かつてのような「戦争」ではなく「平和」の「精神」でなくてはならない。それがいま最低限言えることだ。