がらがら橋日記 共有地

 

 落語教室生が5名になった。去年の9月に最初の塾生が来たときも本当にびっくりしたが、季節が一つ動いて5名になっているのにも驚くほかない。驚くことは他にもある。「稽古は公開します」と近所に告知して回ったら、何名か見に来てくださった。まあ案内もらったからちょっと顔を出しておこうか、という義理堅い人たちがたまに来てくだされば、ぐらいに考えていたのに、その後は絶えることなく、常連さんとご新規さんで毎回けっこうな賑わいである。開始の30分以上前に来られる人もある。

「まだ、こどもが来るまで40分もありますよ。」

「ああ、そげかいね。ほんなあここんとこで待たせてもらーわ。」

「そぎゃん寒とこで待たれんでも、あがってください。ストーブもつけちょうけん。」

「家の鍵閉めて出てきたけん、また帰って開けらやもなし、ほんなああがらせてもらーかね。」

 毎度毎度、この会話を繰り返す。きっとおばあさん気が急いてならず、じっと家で待つよりは、と早いのを承知で出かけられるのだろう。ぼくもそう察せられる年齢になった。すでに同じ徴候を自覚してもいる。

 ほとんど定型となったこの会話を何だかいいなあ、といつも思う。耳が遠くなっている老人たちには、こどもたちの落語が全部は聞こえてないかもしれない。それでも稽古がある度に足を運ぶのは、ここに来ればこどもたちに会える、そんな行き先になったからなのだろう。

「この社会を安定的に持続させてゆくためには、社会の片隅にでもいいから、社会的共有資本としての共有地、誰のものでもないが、誰もが立ち入り耕すことのできる共有地があると、わたしたちの生活はずいぶん風通しの良いものになるのではないかと考えているのです。」(『共有地をつくる』平川克美/ミシマ社)

 ぼくにはちょっと観念的すぎるけれど共感する。そして、さっきの繰り返される会話に、この共有地につながる道が見える気がする。

 昨日21日は、市内某地区新年会のゲストに招かれ、5人がうちそろって高座に上がった。わずか10日足らずでの初舞台という子もいたが、稽古で緊張のあまり顔を上げることさえ臆していた子が、しっかり顔を上げて、大きな声を出していた。こどもはこういうことをしてのける。

 きっと常連さんたちは、どんな出来映えだったか気にしていることだろう。「みんな最高の出来でした」と言うつもりだ。「いつも聞いてくれる皆さんのおかげです」も忘れず。