がらがら橋日記 わっはっはのおばさん

 

 ぼくがちょうど今落語の稽古に通ってくる子どもたち、つまり小学校の一年生ぐらいのころ、東奥谷の実家にはほとんど毎日母の茶飲み友達たちが入れ替わり立ち替わり来ていた。中学、高校と進んでもやっぱり来ていた。ずっとそうだったので、どこの家でもそうなのだと思っていた。丸いちゃぶ台に置かれた急須、湯飲み、菓子皿は常時出番待ちの状態で、おばさんたちが来ると、ぼくもいっしょにお茶を飲みまんじゅうを食べた。おばさんたちはよく笑った。話はまるで聞いていなかったが、笑い声が響いている家は心地よかった。

 中にひときわ大きな笑い声のおばさんがいて、ぼくはその人のことを「わっはっはのおばさん」と呼んでいた。そのうち母まで、「今日は誰が来た?」と聞くと「わっはっはのおばさん。」と答えるようになった。わっはっはのおばさんは、よくぼくに話しかけて、大まじめなぼくの答えをやっぱりわっはっはと笑った。ぼくは、それがとても恥ずかしかったり、うれしかったりした。

 おばさんたちにはそれぞれのサイクルがあって、ほぼ毎日来る人から週に一度くらいの人までいたが、惑星直列みたいに重なるときがあって、そんなときは実ににぎやかだった。重なり合う笑い声の中で、やっぱりわっはっはのおばさんのそれは突出していた。

 毎日毎日、母やおばさんたちは、何をしゃべり、何をあんなに笑っていたのだろう。そして、いつの間にそれがみんな消えてしまったのだろう。

 仕事でいろいろな住宅街に行くようになったが、ついぞ漏れ響く笑い声を聞いたことがない。どこもしんと静まりかえっている。わっはっはのおばさんは、絶滅してしまったらしい。

「ばかなことをしたと思います。」

 郊外の広い家に一人で住まう老人がつぶやいた。若さ故に、そして子どもたちのためにと広い家を求めたが、今では使いもしないその広さをただ持て余しているのだと嘆く。訪ねる家々、どこも似たり寄ったりの嘆息が充満している。

 こどもたちの落語の稽古をそんな家に届けられないものか。こどもの声を響かせたいと思われるところがあったらこちらから出かけたい。今、そんなことを考えている。実現すれば、わっはっはのおばさんは息を吹き返すかもしれないから。