ニュース日記 903 モテなくなった中国

 

30代フリーター 元米国務長官のヘンリー・キッシンジャーの訃報は、半世紀前の米中和解を演出した功績とともに伝えられた。

年金生活者 中国が、西側諸国からも、その政府に逆らう左翼からもモテた時代がある。1972年、アメリカと日本は相次いで中国に接近し、国交を正常化した。それから数年さかのぼる1960年代末に起きたフランスの五月革命や日本の全共闘運動では毛沢東に傾倒する勢力が現れた。

 いずれも中ソ対立の深まりが促した動きだった。キッシンジャーが道筋をつけた米中和解は「共産主義の『壁』の内側で孤立していた中国を世界市場へと導き入れ」(12月1日朝日新聞朝刊)るのが最大の狙いのひとつだった。当時の西側諸国は中国に、資本主義の新しい可能性を開くフロンティアの役割を期待した。

 一方、60年代末のフランスや日本の左翼運動の中に出現した毛沢東支持勢力は、官僚国家と化したソ連に対する失望が生んだ。ソ連を先頭にした東側の各国共産党が労働者を抑圧する機関となった現状を打破し、革命の新たな可能性を開く力を彼らは毛に期待した。

30代 今の中国の姿からは想像のつかない「モテ期」だった。

年金 だが、これら左右両勢力の中国への期待は裏切られた。世界市場へ引き入れれば、政治も民主化するだろう、という西側諸国の思惑に反し、中国は世界市場で稼ぎまくってつけた経済力を独裁体制と軍備の強化に充てた。人民を抑圧するソ連共産党に代わって革命の舵を取るだろうと西側左翼の一部から期待された中国共産党は1989年の天安門事件で人民に銃口を向け、大勢を殺傷した。

 西側諸国の中国への期待は、下部構造の経済が変われば、それに合わせて上部構造の政治が変わるというソ連流の唯物論にもとづいている。期待を裏切られたのは、対抗していたはずの相手の考えに従った結果だった。

 左翼の中国への期待は、ソ連を修正主義と批判する中国共産党の路線にもとづいていた。だが、修正前のソ連がしてきたのは、資本家階級への抑圧に名を借りた人民からの生命・財産の略奪だった。ここにもまた対抗したはずの相手の考えに従った結果、期待を砕かれた者たちの姿を見ることができる。

30代 ソ連の崩壊後、ロシアが市場経済への転換にもたついて混乱に陥ったのに対し、中国は「社会主義」の看板をおろさないまま資本主義を発展させた。

年金 ソ連が計画経済による工業化に一定程度成功し、その体験に囚われてしまったのに対し、中国はそれに失敗し、早くに路線の転換をはかったからだ。

 毛沢東率いる中国共産党は1958年、「大躍進」という名の鉄鋼と農作物の大増産運動を始めた。鉄鋼の生産は工場ではなく農村に粘土で築いた釜で鉄を溶かす「土法高炉」が使われたため、粗悪な鉄鋼しか造ることができず、実用にならなかった。他方、農業は農村を集団化して土地や農具、家畜を公有化した人民公社で行われ、農民は生産意欲を減退させていった――。以上は「世界史の窓」というウェブサイトに書かれている話だが、この通りなら、鉄鋼の増産は「工業の農業化」を、農作物のそれは「農業の工業化」を強行した末の失敗と言える。これに飢饉が重なり、数千万の餓死者が出たと言われる。

この失敗で権力を大きく削がれた毛沢東がのちに巻き返しをはかったのが文化大革命だ。経済はふたたび停滞し、文革が終わったあと、その揺り戻しのように始まったのが鄧小平の主導する「改革開放」路線だった。それが導いた中国の資本主義の目覚ましい発展は、毛の2度にわたる「大失敗」が遠因になったと考えることができる。

30代 そんな大失敗をするような共産党が中国で政権を握ることができたのはなぜなんだ。

年金 その要因のひとつは、知識人と大衆、前衛と労働者を分けて扱うレーニンの考えと、エリートと庶民が分断された中国社会の伝統的なあり方が似ていることにある。先週に続いて岡本隆司の『教養としての「中国史」の読み方』の助けを借りることにする。

 「中国では、エリート文化と庶民文化が、きっぱりと分かれています。そのため、エリートとそうではない人たち、これを「士(エリート)」と「庶(大衆/非エリート)」といっていますが、両者を分けて考える体質はとても古いもので、儒教が流行る以前から中国に存在していました」

「士」が国家・社会の方向を決め、「庶」がそれに従う。それと同じように共産党が国家・社会のあり方を示し、大衆はそれに従う。レーニンの前衛論の骨格を継承した毛沢東は、それが大衆のためになると考えた。

 岡本自身は、中国で共産党が政権を握ったのは、国民党が腐敗と強権政治で「なかば自滅」したためと指摘し、直接には「士」と「庶」に分かれた社会の二元構造を要因として挙げていない。しかし、それは当然の前提として踏まえられていると推察される。彼は、共産党政権下での資本主義の発展の理由もこの二元構造に帰している。「社会主義」は「士」である共産党が引き受け、「市場経済」は「庶」である民間にまかせる分業が成立した、と。