空き家 5 生家の行く末④

 

 畑を借りている伯父の家も空き家だ。早期退職をした春、「畑でもやろうかと思って」と言うと、「使っとらん畑があるから、あそこ使え」と伯父。一度も使ったことがないという荒地だった畑は相変わらず草原のようだが、今も細々と野菜作りを続けている。

 伯父には肺気腫の持病があり、定年退職後に出雲の家に住んだ。祖母が亡くなった年に建った家には伯父の連れ合いが住んで伯母を引き取ったものの、わずかの期間でまた尼崎へ帰って行った。伯母はその後長く施設暮らしとなる(数年前95歳で亡くなった)。

 畑を借りた頃の伯父は、その家に一人で住み、定期的に尼崎へ帰っていた。伯父が私たちに野菜の栽培の仕方を教えてくれ、私たちは伯父にパソコンの使い方を教えた。それから数年後、一人で住む伯父の身体を心配してか、連れ合いも一緒に出雲の家に住むようになった。ところが、しばらくして連れ合いが重篤な病気に陥り、回復はしたものの後遺症に苦しむようになる。伯父も年々肺の状態が悪くなり、酸素ボンベを常時つけるほど。そんな病病老老介護の二人のどちらかが具合が悪くなると、尼崎よりはずっと近くにいる私に連絡が来て、病院に連れて行ったり、救急車で運んだりと、大変な時期があった。

 そのうち、連れ合いは尼崎の施設に入所し、息子に諭された伯父は尼崎に帰って行った。二度ほど尼崎の家を訪ねたが、二度目に行った時、部屋でテレビを見るともなしに見ていた伯父が言う。「ちえみい、おっつぁんなあ、今は不幸や。若い時は良かったけどなあ」。身体が悪いので外にも出られず、一日中テレビ相手だと言う。姉妹は元より、会社の部下たちの面倒見の良かった「ええかっこしい」の伯父の小さくなった姿に何も言えなかった。

 その伯父が亡くなり、連れ合いも亡くなり、家は放置されている。従弟がこの家に住んだのは高校生の一時期だけ。夫の従弟のHのように高校卒業まで住んでいたわけではなく、愛着はほとんどないだろう。除草剤を撒きに行くたびに、破れかぶれのビニールハウス、錆びた郵便受け、落ちた樋などを目にする。従弟は築50年のこの家をどうするつもりだろう。