空き家 29 生家の思い出⑯
ようやく見つけた家政婦の仕事。それまでの心労に加え、昼夜なく病人の介護に当たった母の身体は徐々にむしばまれていくことになる。
私に「家に戻れ」と言った父は、郷里で就職したその年、借金返済に奔走した末、失意のうちに亡くなった。残された母子の窮状を見かねて、従兄たちが破産宣告の申し立てをした。その際、銀行の抵当になっていた家を手放すかどうかを問われると、母は言った。「カヨさんから引き継いだ家を、お父さんが潰したなんて言われたくない」。父に苦労させられ続けた母の言葉とは思えなかった。いや、この家の存在がそれほどまでに大きかったのだろうか。どうあれ、母が決めたこと。二人で借金を返し、この家を守らなくてはいけない。
従兄たちのお陰で、銀行以外は支払い能力なしということで返済免除となった。が、職場まで取り立てにやってくる人もいた。相手側としては当然のことだ。ただ、銀行に返す金額だけでも膨大で、ほかは目を瞑るしかなかった。とにかく、私の給料のほとんどを、母は家政婦で稼いだ分のほぼすべてを返済に充てた。山間の小さな学校に転勤となり、そこで一緒に暮らし始めた伴侶にもその旨を伝え、定額は返済に充てた。娘が生まれ、家政婦の仕事を一時中断して子守に専念していた期間が後半生の母の最高のひと時であったろう。転勤して夫の実家から通うようになり、再び家政婦の仕事に戻った母は、一年半後に過労で亡くなってしまう。五人家族でにぎわっていた生家は、十年ほどの間に住人が次々と欠け、生存するのは、伯父の連れ合いが尼崎に帰る際に施設入所した伯母と私だけになった。
母が元気なうちは、休みを合わせて家に帰っていたし、娘が産まれてからも、伯母を施設から迎えて過ごすことがあった。母が亡くなり、子どもが二人、三人になっても、お盆には仏壇を開けて位牌を乗せ、正月にはお鏡を供え、親子で泊まっていた。近所の人に、「桶屋(屋号)に明かりが灯っちょうと、ほっとすうがね」と言われ、こういう日々がずっと続くと思っていた。