ニュース日記 898 「中間」がなぜ大事か

 

30代フリーター 先日の朝日新聞別刷り「be」(10月21日)の「フロントランナー」は哲学者・作家の千葉雅也を登場させ、「中間こそ根源的(ラジカル)だ」を彼の基本スタンスを示す言葉として紹介している。「中間」というと、どっちつかずとか、あいまいとか、マイナスイメージもある。

年金生活者 千葉の考えは、2項対立の脱構築を唱えるデリダの考えがもとになっていて、「中間」の重視は吉本隆明の思想とも共通する。

 吉本は『心的現象論序説』で、好きとか嫌いとかという感情はどんなに重要なように見えても、最も重要なのはそのどちらでもない「中性」の感情であることを指摘している。「中性」の感情は、好きとか嫌いといった感情を対象化し、それらに距離を取ることによって生じる。そこには対象の遠隔化という人間に固有の観念作用が働いており、だからこそ最も重要なのだと吉本は説く。

 好きと嫌い、善と悪、美と醜、真と偽といった、対立する2項に「中間」「中性」があるとしたら、それは好きでも嫌いでもない状態、善でも悪でもない状態、美でも醜でもない、真でも偽でもない状態ということになる。それは、2項対立が生まれる以前の状態が存在していたことを想定させる。それが「中間」「中性」のモデルとなっているとも言える。

30代 2項対立で物事をとらえるのはとても便利だし、それなしには生活も社会も成り立たないだろう。

年金 2項対立の原型は生誕にある。母と一体だった胎児はこの世界に生まれ落ちると同時に母から離れ、母と一対一の関係に入る。それが2項対立の基盤となる。

 分離した母子はそれぞれ欠如を抱えた存在となる。一体性の喪失という欠如だ。それを埋め合わせたいという願望が生まれる。それぞれに欠けているのはそれぞれの相手だから、ともに相手を我が物にしようとする。それが対立を生む。

 もう少し詳しく言うと、欠如を埋めるために、相手を我がものにしたいという願望とともに、相手のものになりたいという願望が生まれる。前者は対立を生み、憎しみに発展する。後者は融和に向かい、愛を生む。こうして、母と子という2項対立だけでなく、愛と憎しみという2項対立が成立する。

 母子が互いに相手を自らの欠如としてその関係を結ぶように、愛は憎しみの欠如として、憎しみは愛の欠如として成立する。同様に、善は悪の欠如として、悪は善の欠如として、美は醜の、醜は美の、真は偽の、偽は真の欠如として成立する。それぞれの欠如が、一体性への復帰の願望を生むが、それはかなわないことなので、代わりに「中間」が求められる。

30代 生誕にともなう母子の一体性の喪失が両者に欠如を生じさせる、とジイさんは言うが、そんなことを理解できない乳児に愛も憎しみもないだろう。

年金 子のほうは言葉を覚えるまでその欠如を知らない。欠如とは無であり、無は否定によって認識される。その否定を可能にするのが言葉にほかならない。

 人間は言葉を覚えるまでは、まだ母胎の楽園の余韻の中にいる。母と完全には分離しておらず、一対一の関係にはなっていない。すなわち吉本隆明の想定する「対幻想」はまだ形成の途上にある。

 否定が言葉によって可能となるのは、言葉そのものが否定によって成り立っているからだ。言葉は、猫なら猫という対象を「ネコ」という音によって指し示す。そのとき現実の猫はネコによって代替される。それは現実の猫を無いものとして扱うこと、否定することを意味する。

 現実の領域には無は存在しない。それは有だけで充たされている。言葉はその現実とは別の次元を切り開く。現実ではない世界を現出させる。それは現実を否定する世界であることによって、「有」の充実に「否」を唱え、「無」を導き出す。

 この「否」、この「無」が幼児に母との一体性の喪失を意識させ、自らの中に欠如があることを教える。このとき初めて母と一対一の関係に入り、対幻想が形成される。それは人間が生涯の最初期に経験する2項対立、すなわち愛と憎しみの対立の基盤となる。

30代 千葉の言う「中間こそ根源的(ラジカル)」の「中間」とは例えばどんなことだ。

年金 対立する2項を超える第3項を想定することができる。

 彼が言っているわけではないが、国家はその典型だ。対立する人と人、集団と集団を調停あるいは裁定、すなわち脱構築する。そんな国家どうしが対立したときは、国連やEU、G7といった国家間システムが第3項となり、脱構築を図る。

 母と子の間の2項対立を脱構築するのは第3項としての父であり、その過程を精神分析ではエディプスコンプレックスと呼ぶ。この場合の父は生物学的な父とは限らない。彼は母子の間に社会の掟の体現者として割り込み、母子を対立から解放する。

 善と悪、真と偽、美と醜といった概念の2項対立の「中間」、すなわち第3項に該当するものとしては、芸術の世界、とりわけ文学の世界を考えることができる。そこでは善悪、真偽、美醜は同等に扱われ、どちらがいいかなどは問題にならない。おのずと対立は脱構築される。