空き家 27 生家の思い出⑭

 

 生家から離れ、知り合いもいない地で学生生活を送ることになった。父の事業の方はオイルショックを何とか乗り切ったものの、音響メーカーからは手を引き、また縫製に切り替えていた。夏休みに帰省すると、今でいうエコバッグのような、手軽に使える布製鞄が工場に並んでいる。そして、家はすっかり様変わりをしていた。

 玄関を入ると、大きな下駄箱が据えられていて、前は土だったところが応接間になり、その奥の竈があったところが台所になっている。「なかえ」や「おもて」、奥の部屋はそのままだったが、風呂とトイレが奥の部屋の北側にできていた。母屋の北側には、少し離れて風呂が建ち、こでを入れておく小屋や伯母の簡易便所が並んでいた。それらが取り払われ、母屋を北側に少し張り出した形にして台所を広くし、廊下と物置、風呂、トイレを設置していたのだ。使い勝手は良くなったけれども、家の中に入った瞬間に感じた違和感はぬぐえなかった。まず玄関の応接間が、父の見栄に思えたのだ。「オイルショックを乗り切ったぞ、すごいだろ」とでも言ってソファにふんぞり返っているような。

 外観だけでなく、中身も変わっていた。祖母が亡くなった後、伯母もいなくなっていた。尼崎の伯父が建てた家に、先に帰された連れ合いが引き取っていたのだ。伯母に会いに行くと、あの癇癪を起こした際の顔つきで寝間着姿のまま現れた。連れ合いは、「夜中に起きて冷蔵庫の物をつまんだりしてな…」と眉を寄せて話す。取り皿に盛られた物以外、絶対に手を付けない伯母だったのに。心の拠り所だった祖母が亡くなり、住み慣れた家を離れ、あまり接したことのない人と過ごすのだ。落ち着かなくなるのは当然だ。伯父にすれば、長男である自分が面倒をみるのが当然だと思っていただろうし、新築の家に連れ合いを住まわせるからには引き取るべきだと考えたのだろう。そんな事情は伯母に通用するはずがない。

 家には工場の人たちが常に出入りし、私の馴染んだ家ではなくなっていた。1年生の夏休みに長逗留して以来、長期の休みに帰省しても、2~3日で引き返すようになってしまった。