がらがら橋日記 Old Friend
落語教室生が二人入って、それぞれ初稽古を終えた。子どもたちの心の中までは読み取れないのだが、そこそこ楽しんでいるように見えた。そこで開塾以来つらつらと夢想していた計画をいくつか実行に移すことにした。一つには寄席の出前、もう一つが公開稽古である。
出張寄席についは、この欄にも少し前に書いたのだが、知人の口利きもあって、さっそく某デイサービスから依頼が入った。
11年前に高尾小学校で「にこにこ寄席」を始めたとき、あちこちに営業をしかけ、引受先が一つ、また一つと決まっていったころの心持ちがどうしてもよみがえってくる。昂揚感はもちろんあった。でも、それを押さえつけて心のあらかたを占めていたのは「なんでこんなことを始めてしまったのだろう」という苦みの方だ。子ども落語に限らない。この気分は身に覚えがある、しかも一度や二度じゃないぞ、と思う。何かを始めるときはよく。前例がないときはほぼ確実に。10年どころか、20年、30年と懲りずに何度も繰り返している。サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』が頭の中で流れる。
「Hello darkness my old friend. I’ve come to talk with you again.」
落語の稽古は公開します、と保護者に伝え、ご近所に案内文書を配って歩いたときも、old friendはぼくのそばにしっかりといた。そわそわと落ち着かないまま公開稽古初日を迎えた。塾生が来る前から近所のお年寄りたちが入ってこられた。一人か二人来られたら御の字、と思っていたら、7人も来られてあわてて椅子を出したりした。一人でもお客さんが来れば、子どもには簡単に説明して、「大丈夫だ、慣れろ」と励ますつもりだったが、そんな言葉では間尺に合わない。「いつも通りの稽古だから気にするな」など訳の分からぬことを言って、お客さんの前に送り出した。ことの経緯を理解できない塾生が、抵抗したり、泣き出したりしても仕方がない状況だったが、初めこそ動揺していたものの、繰り返し語るうちにだんだんと落ち着き、拍手や掛け声をもらって調子が上がっていった。お客さんもそれを認めて、さらに拍手をするという願ってもない展開になった。
いつもじゃないけれど、old friendが時々こんな結末を用意してくれていることをぼくは知っている。だから苦くても繰り返してしまうのだろう。そしてこの旨味の持続時間はたいそう短く、じきにおなじみのold friendに戻っていくということもまたよく知っている。