空き家 26 生家の思い出⑬
高校3年生になる前の春休み、毎年祖母が参加する隣保の人たちとの慰安旅行に付いて行った。バスで松江の旅館まで行き、演芸を見ながら昼食を摂ったり、歓談したりして過ごすのだ。隣保の人とそう話をすることもなかったのに、なぜ行く気になったのか。あの着物の件から、祖母に対してこれまで以上に気を許せるようになっていたのかもしれない。
ところが、その祖母は旅行から帰るとすぐ、「風邪ひいたかもしれん」と寝込んでしまった。祖母が臥せるのを見たのは、この時が初めてだ。
暖かくなっても祖母は布団をあげようとせず、食事やトイレ以外は横になることが増えていった。その頃、尼崎に住む伯父が退職後に田舎で過ごすために家を建て始めていた。祖母が建設中の建物が見たいというので、リアカーに乗せ、伯母と一緒に見に行った。家の外で祖母を見るのはそれが最後になる。
かかりつけ医によると、祖母は末期の肺がんで、手の施しようがないとのことだった。呼吸が辛くなると、太い針を胸に刺し水を抜かれた。血に染まった胸水は洗面器一杯出、その度に祖母は小さくなっていった。祖母がほぼ寝たきりになったため、母は仕事には出ず介護に専念するようになる。だんだん細くなる祖母を抱えて母はオマルで用を足させ、毎日身体を拭き、献身的な介護をした。祖母が身体を触れさせるのは母だけだった。
食も細くなったある日、スズキの刺身が食べたいという祖母に、父はセイゴを捕ってきて捌き、枕元に差し出した。ほんのひと切れだったけど、口に入れた祖母の満足げな顔が忘れられない。そのうち話す力も無くなり、「ま」と母の名(正江)を言うだけになった。その合図で母は祖母の要望を察し、動くのだ。
元の半分ほどの身体になりながらも何とか年を越したが、三学期が始まって10日ほど経った日の昼前、父が学校に迎えに来た。数え年81歳で祖母は亡くなった。
私は毎日墓に参った。墓前では受験勉強にかこつけて世話をしなかったことを祖母に繰り返し詫びた。そして迎えた合格発表の日、報せを受けるとすぐに墓へと走った。