ニュース日記 895 共通の構造を手さぐりする

 

30代フリーター 前回、「愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ」という、ラカンのわけのわからない愛の定義の話をしたが、これに限らず、彼の言っていることは常人にはおよそ理解不能だ。

年金生活者 ラカンがつくりだした精神分析の概念のひとつに「4つの言説」というのがある。あまりに難しいので、私は苦しまぎれに、自分の慣れ親しんできた吉本隆明の使う概念をそれに当てはめて考えてみた。

30代 お疲れさん。

年金 「4つの言説」とは「主人の言説」「大学の言説」「ヒステリー者の言説」「分析家の言説」を言う。どの言説も登場する役者は同じで、「主体」「主人」「知」「対象a」の4者だ。これらの役者は言説によって異なる役を演じる。〈真理〉〈動因〉〈他者〉〈生産物〉がその役だ。

 この「4つの言説」を吉本の考えに対応させると、「主人の言説」は「国家」の言説に、「大学の言説」は「知識人」の言説に、「ヒステリー者の言説」は「大衆」の言説に、「分析家の言説」は「思想家」の言説に相当する。

 「主人の言説」では、〈真理〉としての「主体」に支えられた「主人」が〈動因〉となって、〈他者〉である「知」に働きかけ、「対象a」を生産物として生み出す。国家の政権担当者が国民に支えられて(国民を代表して)知識人の集団の官僚に働きかけ、サービスを生み出す過程は、この言説のひとつと考えることができる。

 「大学の言説」では、〈真理〉に役どころを替えた「主人」をバックに、「知」が〈動因〉となって「対象a」に働きかけ、「主体」を生み出させる。知識人が世界についての知識を収集し、それを広めて、啓蒙された人たちを増やしていくのも、この言説に該当する。

30代 「対象a」とは何のことだ。

年金 ラカン独特の用語で、いろんな解釈ができる。私は、人間が生涯にわたってそこに帰りたいと願い続ける母胎の楽園を象徴、代替するあらゆるものを指すと考えている。

 「ヒステリー者の言説」では、この「対象a」が〈真理〉を演じ、それに突き動かされる「主体」が「主人」に働きかけ、「知」を生み出させる。国民大衆が日々の労働や消費、ときに選挙を通して為政者に働きかけ、世の中を改良する知恵をしぼらせる過程をこの言説はあらわしている。

 そして「分析家の言説」では、「知」に裏打ちされた「対象a」が「主体」に働きかけ、「主人」を産出させる。言い換えれば「主人」を生産物の地位に置く。知的上昇を遂げた知識人が、「大衆の原像」を自らの中に繰り込み、思想する者となって為政者を相対化する過程はこの言説に属する。

30代 小難しいこじつけを聞かされている気がする。

年金 吉本隆明は『幸福論』という著書の中で、自分のしてきた文芸批評の「勉強法あるいは研究法」を打ち明けている。「例えば、『源氏物語』を角川文庫で読んだとします。そうすると、その中で必ず数ヵ所あるわけですよ、おやっ、これはちょっと、ほかの本にもこれに似たところがあったな、とか、このことについて詳しく書いてある本を読みたいな、と思うところが。そうしたら、ほかのものを連鎖させるんです」

 これを私なりにまねてみたのが、ここまでやってきた「こじけつ」だ。せっかくだからそれをさらに進めてみよう。

30代 ジイさん、大丈夫か。

年金 「4つの言説」は吉本の考察した幻想の各領域にも対応させることができる。すなわち「主人の言説」は「共同幻想」に、「大学の言説」は「個人幻想」に、「ヒステリー者の言説」は「対幻想」にそれぞれ属し、「分析家の言説」は、各幻想領域にまたがるものとして扱うことができる。「ヒステリー者の言説」が対幻想に属すると考えられるのは、ラカンがヒステリーという病気を、女性であるとはどういうことかを問う病だとしているからだ。

 「4つの言説」はさらに吉本の幻想論を媒介にして、柄谷行人の交換様式論にも対応させることができる。柄谷の想定する交換様式A=互酬(贈与と返礼)は「ヒステリー者の言説」と、同B=服従と保護(略取と再分配)は「主人の言説」と、同C=商品交換(貨幣と商品)は「大学の言説」と、そして同D=Aの高次元での回復は「分析家の言説」と構造を同じくする。

30代 なぜ「分析家の言説」が「大衆の原像」とかかわるんだ。

年金 ふだんは天下国家のことや、学問や芸術のことには目もくれず、家族や親しい人たちとの生活を第一に考えて暮らす人間のイメージを吉本は「大衆の原像」と呼び、それを「たえずみずからのなかに繰り込む」(「情況とはなにか」、1966年)ことを「知識人の思想的な課題」(同)と考えた。

「分析家の言説」は「知」を持つ分析家が「対象a」と化すことによって、クライアントである「主体」を「主人」の支配から解放する過程を表している。これは知識人が、知識まみれのおのれの中に「大衆の原像」を据えることによって、たとえば国民を知識人による啓蒙の対象とか、為政者による操作の対象として扱う支配の論理を解体する過程と同一の構造と言うことができる。