空き家 25 生家の思い出⑫
工場を建てる前、便所の隣の納屋には農作業に使う様々な物が置かれていた。その中に養蚕に関する物もあり、ひとまずは工場の一隅に保管してあった。天井がはられ、祖母も養蚕はすっかり辞めてしまったので、関連する道具一切処分することにしたのは、私が高校2年生の時だった。その中には糸巻や糸車もあった。「うわあ」と言って、糸車を回す私の様子を見て、祖母は、「どっこいしょ」と腰をあげると、古い箪笥の中から一着の着物を持ってきた。傍にいた母が、「紐落としの時の着物だがね」と言う。祖母は、「ここで育てた蚕の糸を繰って、染に出して、機織りしてもらって、それで着物に仕立ててもらったわな」と目を細める。つまり、祖母が育てた蚕の繭を使った、すべて手作りの代物だったのだ。
田舎に帰り、この家に住まうようになって初めてこの家の重みを感じた瞬間だった。祖母は、一人残されたこの家で、生計を立てるために養蚕をはじめ、最盛期には庭に集荷場まで建て、地方巡業の役者の宿舎にこの家を使った。家を支える太い大黒柱さながらの生き方を貫いた祖母の魂がこもった着物。思わずその着物に頬ずりをした。
私が通った高校には「たまもひ」という冊子があり、そこには詩、俳句、短歌、古文や漢文の一節などが収められていた。それを少しずつ暗唱し、先生の前で言って合格すると次に進み、最終的には冊子すべてを暗記する。暗記が大の苦手の私は、なかなか先に進めない。本一冊を読み終えたこともない私のもう一つ苦手なものが、年に一度提出させられる主情文だ。暗記と読書に加え、作文が大嫌いだったのに、この着物のことを書き出すと、面白いように筆が走り、一気に書き上げた。主情文は、提出後に先生が読んで、何点かをまとめて冊子にする。その文集に私のが載ったのには驚いた。「文章は稚拙だが、思いが溢れている」というような評だった。やろうと思えばできるではないか。何だか力が沸いてきた。
高校の授業に付いて行けず就職する気だった私は、3年生を前に漸く将来を考えるようになった。今からでも遅くない。小学校時代に憧れていた教師になろう。そのためには進学しなくてはならない。絹の着物が、霞んでいた未来に一筋の道を示してくれたのだ。