がらがら橋日記 子どもの声

 

 担任をしている間、ずっと続けていた唯一のことが日記を書かせることだった。それは、自分が小学生のころに書かされたからだ。書くことを思いつかず嫌になるときもあったが、逆におもしろくてしかたないときもあった。総じて、一日の終わりにその時その時思い浮かぶことを書くというのは、自分の中で良い作用を及ぼした気がするので、子どもたちにも求めた。

 子どもたちの日記の中から、生き生きしたもの、考えさせられるもの、感情を揺り動かされるもの、ユーモアのあるものは、それだけをまとめて構成し、プリントして配布した。「詞花集」とか「えんぴつの花」とかタイトルをつけて、多いときには年間で百号を越えた。

 学級の人数分よりかなり多く印刷していたが、それは職員の中に自分も読みたいと言ってくれる人がいたからだ。配ると子どもたちは黙ってにやにやしながら読んでいたが、職員も同じ顔で読んでいた。その顔を見るのがいつも楽しみだった。

 学級の子どもたち以外にも楽しみに読んでくれる人がいるのだから、と思いついたのが夕焼け通信の読者に通信といっしょに送ることだった。喜ぶべきかどうかわからないが、読者の反応は子どもの日記の方がはるかに多かった。夕焼け通信をおもしろいと言ってくれる人はめったにいないが、子どもの日記はたくさんいた。

 あるとき、京都の上島聖好さんが電話をかけてきて、

「宮森さん、あなたすごく大事な仕事をしているのよ」

と言った。上島さんは、ぼくが子どもの日記をおまけで同封しているぐらいに軽くしか考えていないことを見抜いていて、あなたが思う以上に値打ちがあるのだと諭してくれた。子どもの紡ぐことばを求めている人たちがいることをぼくはそのときようやく考え始めた。

 高尾小学校で落語を始めたとき、ぼくはやはり軽く考えていた。地域の人たちを学校に呼び込むのに落語のおもしろさは使える、というぐらいの軽さだ。考え尽くしてから物事を始めるなどとても根気が続かないし、とにかく始めてみて考えるのはそれから、というのが性に合っているのでしかたがない。

 子どもたちの落語に話芸としての価値をみようとすると足りないところだらけかもしれない。これまでかなりのレベルに達した子もいるにはいるが、それはその子が何かしらの力に恵まれているからで、全員に求められるものでは決してない。実力としてはかなりのでこぼこがあるにもかかわらず、高尾小にこにこ寄席に足を運ぶお客さんは、にこにこ寄席の全体を楽しんでくれている。上手い子をひいきにするという感覚はまったくなく、巧拙関係なしに子どもたちの有り様を楽しんでいるように見えるのだ。一年また一年と重ねるごとにそれを強く感じるようになったし、子どもたちもそれを肌で感じているからこそ、誰一人嫌がる者もおらず今日まで続いているのだと思う。

 高尾小を去って、少し距離を置いたとき、子ども落語と上島さんの言葉が重なった。お客さんが求めているのは、巧拙という意味の世界ではなく、子どもの声そのものなのではないか、と思ったのである。

 今も忘れられないにこにこ寄席の一席がある。落語を聞きたくても足が痛くて学校に出かけられない、という地域のあるお年寄りのことを聞いた。「ならばこちらから出かけよう」と言ったら、子どもたちも大乗気になった。一般の民家、舞台はこたつ、お客さんはその声を寄せてくれた老人と、ご近所の人たち五人ばかり。子どもたちはいつもよりリラックスして語ってみせ、さっきまで舞台であったこたつを囲んで、みかんやお菓子におおはしゃぎでぱくついた。それをにこにこして眺めながら、

「寿命が延びましたわ。」

と老人は言った。子どものにぎやかな声を全身に浴びると薬効あり、とでも言わんばかりに。

 子どもの声を毎日当たり前に聞く職業だったぼくにはまるでわかっていなかったが、子どもの声を聞きたくても聞けない家や地域が、いくらでもある。自覚するにせよ、無自覚であるにせよ、大人ことに高齢者は、子どもの声を浴びたいという欲求が体の中にあるからこそ、せっせとにこにこ寄席に通ってくるのではないか。ぼくにはそう思えるのだ。

 松江算数活塾で落語教室をやらないかと誘われたとき、ひょっとして教室生が現れたなら、子どもの声を求める人たちに届けられるのではないか、と思った。表現力や想像力を伸ばす、などと大義名分は掲げるけれど、ぼくの動機の中心はそこじゃあない。求める人がどこかで待っている気がするのだ。

 落語教室生が2名になった。りっぱに寄席ができる。子どもたちを呼びたいと思われる方、どうぞご連絡ください。子どもたちの成長をいっしょに見守ってください。