空き家 24 生家の思い出⑪
田舎の家や学校に少しずつ慣れていた私と違い、父、そしてその仕事を手伝う母は、毎日が戦争だった。ずっと会社勤めだった父が事業を立ち上げるというのがまず無謀だ。しかも、洋布団などという、売れるか売れないか未知の物への挑戦。父は注文を取ったり売りに回ったり、母は近所から通ってくるおばさんたちと一緒に布団を作っていた。家庭用のミシンより随分大きい電動ミシンで、糸は底面の直径が十センチ近く、上に行くほど円周が小さくなった筒様の物。私も幾度かミシンを踏んだが、どっどっどの音が凄く、かなりのスピードで布を送るものだから、手を縫われそうで怖かった。父は布団をハイエースの荷台一杯に乗せて毎日のように出かける。しかし、買い手はそんなに多くなかった。布団など、そう取り換える物ではない。売れずに幾日も帰ってこないこともあった。座布団も作ったけれど、それとて同じこと。大型ミシンを揃えたのに、あっさりと布団づくりは辞めてしまった。
次に手掛けたのは、とある音響メーカーの部品作り。庭の工場には、大型ミシンに替わりベルトコンベアーが置かれた。基板に様々な部品を付けていくのだ。本社から指導をする人がやってきて、我が家に寝泊まりして工場で働く人たちに付いて教えていた。夏休みには工場でアルバイトをした。ベルトコンベアーに乗った基板が次々とやってきて、自分にあてがわれた部品を付けていく。ラジオを聞きながら、ただただ同じ作業を続けていく。昼休みと「音楽の風車」が救いだった。働く人は近所のおばさんが多かったけど、少し離れた所から働きに来る、私より二つ年上の人がいた。年が近いので親しくなったが、学校が始まり私が工場に行かなくなっている間に辞めていた。その冬のこと、新聞の記事を見てびっくり。彼女は一酸化炭素中毒で亡くなっていたのだ。狭い部屋で、炬燵にあたっていてのことだった。
仕事は切れ目なく来て、何とか軌道に乗った。ただ、納期に間に合わせないといけないので父も母も夜中までその穴埋めに時間を費やし、夕食を一緒に摂ることはなかった。時には祖母や私、伯母までもがそれに付き合わされた。それでも、仕事があるのはいい。やがて、かのオイルショックがやってくるのだ。