空き家 20 生家の思い出⑦

 

 ♪大阪の子 大阪の子 背の高い 大阪の子 大阪の子

そういう歌があったようだ。その歌詞の背の高いを、背の低いに替えて歌う子がいた(当時の私は背が低く、前から2番目だった)。出雲市立第二中学校という一学年8クラスの大きな学校にスクールバスで通うようになった私は、知らない子ばかりの中で、大きな障壁を前にあがいていた。言葉だ。「ちゃうやん」「先行ってるでえ」などと平気でしゃべることができない。「ちがあがね」「先行っちょうけんね」など、聴き慣れない言葉が耳に入ってくる。必要なこと以外なるべくしゃべらないようにした。そのうち、「だけん」「しちょう」など、語尾を変える言い回しを身につけ、少しずつ友だちもできていった。それが、地元の人以上の出雲弁になっていったのは、祖母や近所のおばさんたちの会話を毎日耳にしていたせいもあるが、この地への同化をことさら進めようとの思いがあったのかもしれない。

 学校から帰ると、タマではなく祖母と伯母がいつも家に居た。父と母は立ち上げたばかりの布団作りの仕事で忙しい毎日。工場には大きなミシンが何台も並び、働きに来る地元の伯母さんたちに交じって母もミシンを踏み、父はできた布団を売りに回っていた。祖母と伯母との暮らしは、泉南の暮らしからすると一昔前という感じで、煮炊きは土間に置かれた竈で行われ、水をはった五右衛門風呂はこで(出雲弁で落ち葉、我が家で使ったのは松葉)を焚きつけにし、薪をくべて沸かした。風呂場から少し離れたところに、薪やこでを積んだ小屋がある。そこに入れるこでを集めるのは祖母と伯母の仕事。そのこでかきに一度だけ付いて行ったことがある。防風のため砂山には松が植わっており、枯れ落ちた針のような葉が地面に敷き詰められている。それを熊手でかき集め、塊にして、背負子に重ねていくのだ。すでに70の後半になっていた祖母も、脚を引きずって歩く伯母も、こでの塊を六つも七つも重ねて運ぶのに、私は二つがやっとだった。暮らしに根付いた力というものを見せつけられた気がした。相変わらず海を彷徨う日々ではあったが、少しずつ祖母や伯母と行動を共にすることも増え、私の身体の中を流れるものに変化が生じてきていた。