がらがら橋日記 あほんだら猪八戒

 

 読んだ本より読んだ気になっている本の方がはるかに多い。せっかく退職して時間ができたのだから、ことに度々映像化されているような超有名古典は読んでから死ぬべし、とコツコツ読んでいる。とはいえ、とても余命で読み切れるような量ではないので、縁のあったものから少しずつというのが実情だ。その状態のまま寿命が尽きるとは思うが、まあそんなもんだろうと思う。

 熱帯夜がうんざりするほど続き、夜中に目が覚めてしまうので、朗読で眠りに誘ってもらおうと考え、図書館からCDを借りてきた。江守徹の中島敦を聞いたら俄然読みたくなって、全集を借りた。卒業論文のテーマに全集の巻数が少ないというだけの理由で中島を選んだ友人のことを思い出した。

 何十年ぶりかに読んでみると、物語のおもしろさもさることながら、文体が実に小気味よいことに気づいた。漢学者の系譜に連なる人だから、馴染みのない漢語が頻出するが、不思議とイメージしやすく難しく感じない。

「悟浄出世」「悟浄歎異」は、「西遊記」に題材を得た短編小説である。沙悟浄の独白を中心に構成された作品なのだが、西遊記をこんな読み方ができたらどんなに楽しいだろうかと思った。実際作者には同じ視点で書き続ける構想があったらしい。早世してしまったことがほんとうに惜しまれる。

 中島敦に手を引かれる格好で、岩波文庫版『西遊記』を読み始めた。これこそ知った気になって読んでいない古典の最たるもので、小学生の時に児童用の簡略版で読んだきりだ。中野美代子訳岩波文庫は全十巻。訳注と頻繁に往復しながら不慣れな漢詩を読まされるものと覚悟してページをめくったが、そんな先入観は吹っ飛んだ。まるで落語なのだ。与太郎役のあほんだら猪八戒は、まぬけだのおたんちんだのとみんなから罵られながら一向に悪びれる様子はない。八っつぁん悟空は、せっかち極まりなく周りを一顧だにせず突っ走る。教養のみでまったく無力の三蔵法師は長屋の隠居か。次々と手を替え品を替えて登場する化け物たちを相手に罵詈雑言の果ての大立ち回り。口承文芸として、市井の人々がどれほど楽しんだことだろうか、それを思うだけで胸が熱くなってくる。終わらせたくなくて次々膨らませていった結果としてのこの長さなのだろう。

 いちばん地味でこれといった出番のない沙悟浄にじっと三人を観察させた中島敦の凄味。西遊記を読んでいると沙悟浄と中島敦が自ずと重なってくる。さてもありがたきご縁かな。死ぬ前に読めて何より重畳。