がらがら橋日記 南アルプス
年に一度の遠征と、数回低山に赴く20年来の登山仲間がいる。ここで得られた経験は、かけがえのないものとして積み重なっている。映画やドラマ、ちょっとした旅行はいずれも新鮮味がかなりなくなってきているので、心震わすような感動を与えてくれるのは、体を酷使する登山が最後かもしれないと思う。だから、今年のそれが近づいてきても一向に気乗りせず、ともすれば止める理由を探している自分に気づくにつけ、一体どういうことだと自分のことながら戸惑ってしまった。
はっきりした意思表示ができないまま遠征日が近づき焦りを感じていたところに台風7号が発生した。数日後の予報円は我々の目的地をすっぽり覆っていて、新幹線も高速道路も止まる可能性ありと発表された。鍛錬、睡眠、仕事、連日の熱中症警戒アラート、それぞれの負債がたまっていたぼくは、まるで借り換えで凌ごうとするみたいに7号に飛びついた。
「台風7号が危ういです。見直した方がいいんじゃありませんか。」
リーダーのOさんは、電話の向こうでいぶかしそうな顔をしていたと思う。少し間をおいて、
「うーん、まあ行くだけ行って、必要なら変更すりゃあいいんじゃないの。」
と言った。ぼくは少しいらついて、
「高速道路も閉鎖する場合ありって発表してます。行ってしまったら帰りは大混乱かもしれませんよ。」
Oさんは、やっぱり少し黙っていた。様子の違うぼくにどう言ったものか考えていたのかもしれない。もう一人のメンバーとも相談する、として一旦電話を置いた。ほどなくかかってきた。
「行けそうだから行くことにした。まあ言いたいこともわかるけど、今回は道連れになってよ。」
ずぶ濡れになって滑りやすい岩稜を下山する場面が浮かんだりしたが、愚痴を言って、悪縁を呼び込むのも避けたいので、もう何も言うまいと決めた。
山行に出かけてみると、鍛錬不足はさほど気にならず、山小屋での睡眠不足には閉口するもこれは毎度のこと、何よりも嘘のように天気に恵まれた。台風のとぐろのような黒雲が遙か南に見えたが、天空のほとんどは透き通った青空になった。曙光がどう作用したものか放射状に後光を放った北岳を目にしたら、それだけで心満たされた。
帰り道、くどくどと予見した渋滞も混乱も悪天候すらなく、寄り道さえ楽しんで帰った。台風七号もぼくの臆病風もうまくかわしてくれた仲間の得難さを南アルプスの威容とともに記憶しておかねばと思った。