空き家 17 生家の思い出④
母が田舎を離れ、一足先に泉南の大正紡績という会社で働いていた父のもとに向かったのは私が1歳を過ぎたばかりの頃。自分たちが暮らすだけでなく、祖母や伯母の生活費を送らねばならないので、母も働く必要があった。今のように託児所や保育所があるわけではなく、まだよちよち歩き始めたばかりの私を抱えて働くことはできない。そこで、祖母に預けようと、田舎へ私を連れ帰ったのだが…。いざ置いていくとなると母は私にすがりついて離れず、ついに祖母が折れて泉南に子守りに行くことになったそうだ。幼稚園に上がる頃には祖母は一緒に居なかったので、それまでの4年余りは父母、祖母と私の4人で父の勤める紡績会社の社宅に住んでいたことになる。泉南は紡績会社がたくさんあり、母も父の会社ほど大きくはない紡績会社の経理の仕事に就いていた。
小さかったので、その頃のことは断片的にしか覚えていない。私たち4人が住んだのは、8畳と2畳の2部屋、水瓶の置かれた台所、縁側のある三軒長屋の真ん中の家だった。祖母がフライパンで作ってくれるおやきが好きで、よくおねだりしていた。長屋に風呂はなく、同じ田舎出身の家までもらい風呂に行くことがあった。帰り、母に言うと「歩きなさい」と言われるので、いつも祖母におんぶをせがんでいた。母の会社にある風呂に浸かった際は祖母と一緒に入り、私の後に祖母が湯船に浸かると湯が溢れ、二人で笑い合ったものだ。
子守のため田舎を空けることになってやめたのかどうかは不明だが、祖母は夫を亡くした後、養蚕で生計をたてていた。だから、生家には天井まで蚕棚が積まれていた。
これは一緒に住むようになってからのことだが、テレビを見ている時に、ある俳優の姿を見て、「そこに出ちょう辰巳柳太郎や森雅之がここを宿にして泊ってなあ」と、祖母が目を細めて話したことがある。両俳優ともまだ無名で、地方を巡業していた頃のことだろう。家の庭に集積所のようなものを建て、近所の養蚕農家はそこに繭を集めていたということだから、かなり本格的にやっていたようだ。