空き家 15 生家の思い出②
出雲の家に帰省した際の記憶で、鬱蒼とした庭、怖い便所、黒くて高い天井と共にうっすらと残っているのが風呂だ。おぼろげな記憶だからかなり小さい頃だったと思うが、恥ずかしく感じる歳にはなっていたのだろう。庭にどんと置いてあるドラム缶のようなものだった。下から焚きつけるようになっていたのか、お湯を入れただけなのか全く覚えていない。ただ、生垣に囲まれていたとはいえ、戸外ですっぽんぽんになって入るのが恥ずかしかったことだけはしっかり覚えている。大人もそうして入っていたとしたら、何とおおらかな時代だったことだろう。いつまでそのドラム缶があったかも分からない。いつのまにか、裏庭に小屋が建ち、五右衛門風呂になっていた。
田舎へ帰る道中が長かったことも覚えている。大阪といっても、泉南だから和歌山の方が近い。まずは南海電鉄の黒田駅まで歩き、電車で難波へ向かう。通天閣が見えると降りる準備をした。難波から、もう一つ電車だか地下鉄だかに乗り換えて大阪駅まで移動するのが難儀だった。人ごみの中をあちこち連れ回されるのは辛かったが、大荷物を抱えた父や母に文句は言えない。大阪駅で汽車に乗り込むとほっとした。ところが、そこから出雲までが長い。朝早く出ても、夜暗くなって着くから十時間くらいはかかったと思う。尼崎駅に停まると、「武おっつぁんがおるところだ」と言ったり、「ふくちやまあ」のアナウンスが流れると、変な地名だなと思ったり。トンネルを通過する時は、服に煤のようなものが付くので、トンネルが来る度に窓を閉めていた。途方もなく長い時間を汽車の中で過ごすのは退屈だった。ただ、一つだけ楽しみだったことがある。帰省の際にしか味わえない物が食べられたことだ。まずは駅弁。駅弁に付いてくるお茶の入れ物が気に入って、いつも持ち帰った。当時なかなか口に入らなかったバナナも、甘いミルクキャラメルも、この時には食べられた。それと、夏に帰省することが多かったので、冷凍ミカンにもありつけた。
朝出ても、出雲の家に着くのは夜だ。どこの家にも車がある時代ではない。暗い中を、駅からはタクシーを使って帰るしかなかっただろう。かなりの距離、高かっただろうな。