空き家 14 生家の思い出①
生家の登記権利証書は現在、私名義になっている。保存してある証書で一番古いのは、祖母が所有者だ。祖母は母の伯母で、子宝に恵まれなかった。母の実母には7人の子(末妹は夭折)がおり、下から3番目の母が成人してからこの家に養女に入ったのだ。その祖母名義の間に、父が事業を興し、銀行からお金を借りるため、家を抵当に入れた。祖母が亡くなった後、父の事業はオイルショック後立ち行かなくなり、失意のうちに父は他界。母はこの家を残すために借金を払い続け、家政婦として働いていた家で倒れた。命を懸けて守り続けた母の思いを身に染みて感じる私が家の所有者になった。それなのに、生家はだんだん朽ちつつある。今のうちに、思い出せることは記しておかねば。
明治生まれの祖母が、今の家よりさらに海に近いところにあった元屋敷から、新しく建った家に移ったのは大正の頃かと思われる。桶屋をしていた夫が亡くなって自分が家の主となり、養蚕で生計を立てていた。私は一歳過ぎて大阪の泉南に父母と移ったので、ずっと一緒に暮らしていたわけではない。帰省した際には天井まで蚕棚が積まれていたのを覚えている。帰る度に出してくれる祖母の料理は、鯛のほぐし身入りのちらし寿司。私はちょっとうんざりだった。高くて黒い天井から垂れた一本の裸電球の下で、ちゃぶ台を囲み食べたものだ。祖母は大柄な身体をゆすらせて、ほとんど歯の抜けた口で大笑いをし、細身で障がいのある伯母も、これまた歯の抜けた口を歪めながら微笑んでいた。
その頃の便所は庭の掘っ建て小屋の中にあった。開き戸を引くと、地面の土に穴が掘ってあり、その上に板が2枚置かれていて、その板にまたがって用を足すのだ。男性の小用は桶にそのままだったような気がする。横には肥桶(こえたご)が置いてあって、穴に溜まると柄杓で掬って二つの肥桶に汲み、天秤棒で担いで畑に運んで撒くのだ。
便所で嫌だったことが二つ。夜、真っ暗な中を小屋まで行かねばならないこと。必ず母か祖母に付いてもらった。もう一つは紙。新聞紙で拭くと、パンツが黒くなってしまうのだ。